街々は亡霊でいつぱいだ。空は花びらのやうな亡霊の足跡でひかつてゐる。僕はひわ色の斜光の充ちた窓のうちがはにかへる。誰よりも寂かに、不安を凝固させようとして……。(夕ぐれと夜との独白)

こういう文章はリルケの作品の影響を受けていると思います。まあ言ってみれば真似してるわけです。リルケの文章をなぜ若い吉本が気に入ったのかを推測すると、病的な暗い感受性を抱えて、しかしそれでも社会に対する思考というものを手放さないところじゃないかと思います。そこから生じる感性と思考の融合された暗く重く粘り強い文体が吉本の内面に響いたんだと思います。リルケの文章をちょっと抜き出してみます。
私は見る稽古をしてゐる。何故、すべてのものが私の中にずんずん深く入つてゆき、そしてこれまで何時もそこに止つてゐた場所にもはや止らうとしないのか、私には分らない。私の中には、私がそれについては何も知らない内部がある。すべてのものは、いま、そこまで行つてしまふ。そこで何が起つてゐるのやら、私には分らない。(「マルテ・ローリッツ・ブリッゲの手記」から ライネル・マリア・リルケ作 堀辰雄訳)
それはそれとして、吉本が暮らしていたのは貧乏くさい東京の下町です。それなのにこのパリの街のセットのなかに住んでいるようなバタ臭い表現はなんなんだ、というツッコミを入れたくなります。汚れ畳に寝そべっているくせに「空は花びらのような亡霊の足跡でひかっている」だとぉ?やっちまったなぁ。それは吉本の若気のいたりなんだといってもいいわけですが、吉本は自分のこうした無理に扮装したような表現の経験を自己分析することによって優れた芥川龍之介論を書いています。
芥川の作品に「汝と住むべくは下町の 水どろは青き溝(どぶ)づたひ 汝が洗(銭)湯の往き来には 昼も鳴きづる蚊を聞かむ」というとてもいい詩があります。この感受性を吉本は芥川が「あらゆるチョッキを脱ぎ捨てた本音」ととらえています。吉本も芥川と同じように東京の下町に育ったから洞察できるのでしょう。下町というのは濃密な人間関係と情緒があると同時に、観念として上昇しようという意欲を抱いたものにはねっとりと足をひっぱる閉鎖性があるわけです。自分の出自である下町自体を感性の基盤にして西欧の文化に手を伸ばすということができないということです。そこで下町という自分の基底を押し隠して、つまり「チョッキを着て」西欧の文化のなかに観念として上昇していくことになります。堀辰雄立原道造もそういうところがあったといえると思います。この文章の若い吉本もリルケに影響されて「チョッキを着てみた」ということになると思います。しかし吉本のなかのなにかがすぐにそのチョッキを自ら脱がせたんでしょう。それは化学というものかもしれませんし、戦争体験でもあるし、吉本の徹底した論理性と自分を装うことにはにかむ感受性というものであるとも思います。また芥川や堀辰雄にない肉体の頑健さでもある気がします。吉本のこうした存在感は、吉本を読みだした若いころのわたしにとって、あっちこっちの文化に影響され憧れてふわふわと浮き上がっていきたがる内面を、現実の貧しさとみじめさのなかに引きづりおろしてくれる力をもっていました。
さて母型論の解説に移らせていただきます。ちょっと唐突と思われるかもしれませんが、以前解説で書いた時にはわからなかったことで最近ようやくわかったことがあるので解説の補足をさせてもらいます。それは母型論にもありますが、角田忠信という学者が日本人の脳とポリネシア人の脳だけが母音を左脳(言語脳)優位の状態で聴き、ほかの地域の人々たとえばアメリカ人は右脳(非言語脳)優位の状態で聴いているということを確定した研究があります。なぜ日本人とポリネシア人だけが脳の機能がほかと違うのだろうという疑問はわたしも当然もちましたがまったく分からなかったわけです。さいきん吉本を読んでいてわかったのは、この脳の機能の違いを吉本は歴史の段階の違いのなかに普遍的に位置づけることができるのではないかと考えていたということです。つまり日本人とポリネシア人にみられる脳の機能はもっとも古い段階に、それ以外の地域の脳の機能はそれより新しい歴史の段階に位置付けて考えられるということです。ということは現在では母音を右脳で聴いている地域も歴史の古い段階では、日本人やポリネシア人のように母音を左脳優位で聴いていただろうということです。そうだとすれば、ふたつの脳の機能の違いは地域の違いではなく歴史段階の違いのなかに普遍的に位置づけられることになるわけです。これはヘーゲルの歴史哲学としてある考え方で、歴史の段階というものを世界に普遍的に存在すると考えます。だから現在のヨーロッパにもアジア的な段階やそれ以前の未開・原始の段階(吉本のいうアフリカ的段階)を通過して現在に至っていると考えます。それと同様に、歴史段階と脳と言語の関係が関連付けられれば、日本人とポリネシア人だけが脳機能が違うという理解だけでなく、世界に普遍的に段階としての脳の機能と言語の関係の変遷があり、あらゆる地域はその変遷を通過してきた。そして日本人とポリネシア人だけがいまのところその古層の脳と言語の関係を機能として保存しているという理解が付け加わることになります。ま、そういうことがやっとわかったということです。(いまごろ分かったの?)と思っている人がいますね?そこのアナタ。すいませんバカで。
もうひとつ補足したいことがあります。前回吉本の考察としてひとつは胎児以前の無意識はありえるかという麻原彰晃に関連する問題と、交換価値が世界の普遍的な分析の基準とはならなくなって贈与価値と吉本が呼ぶ価値論が提起される、その贈与価値は無形の価値ですが、それは言語の価値とつながっているという問題を解説しました。これらの問題意識は吉本のもっとも先端的な問題意識、つまり吉本にもまだよくわからないがこれからの世界のゆくえを考察するにはどうしても解明しなくてはならないと思っていた問題意識なんだろうと思います。胎児の無意識また胎児以前に存在するかもしれない無意識というものが科学的に解明できるとすると、それは宗教が前世とか来世と呼んでいるものが胎児あるいは遺伝子学的な胎児以前の無意識と関連づけられることを意味します。そうだとすれば前世とか来世としてイメージされたり倫理化されてきた宗教の問題は、迷信や空想ではなく人間の身体と無意識に関連付けられた思想の問題とみなすことができるようになります。つまり宗教と科学の統一という宮沢賢治の生涯をかけた願いがかなうことになるわけです。この問題意識はアフリカ的段階という歴史段階の解明であり、同時に資本主義が死んだあとの世界という将来の歴史段階の考察でもあります。
もうひとつの交換価値を司る貨幣ではなく無形の贈与価値の価値の基準となるものは「言語」ではないかという問題意識は非常に興味深いものです。補足したいことというのはこの問題意識に関連して吉本が書いていたことです。どこで書いていたのか思い出せないので、うろ覚えで解説としては失格なんですが、もとの文章が見つかったらもっと詳しく補足していこうと思います。吉本は「法」というものについて、その時代のもっとも緊張した表現に内在するものも「法」とみなしたほうがいい、と述べていたと思います。これはわたしには最初まったく分からなかったことですが、無形の価値という未来の価値論を考える中で生まれてきた新しい「法」の考察なんだろうと思います。吉本はかってマルキ・ド・サドのいわゆる「サド裁判」というものに関わったことがあります。その体験から述べているわけですが、検事はサドの小説の部分的な文章を取り上げてここにワイセツな表現があるという告発をする、それは実証的な言語観というようなものです。それに対してサド裁判に関わった文学者たちは吉本も含めてサドの小説全体を読めば、それは単にワイセツな表現だということを意味しない、それはサドの思想を把握して読まなければ意味がないという反論をしました。しかし吉本はその体験を考えて、自分たち文学者の言い分は不十分だったと考えます。そして確かにここの部分にはワイセツな表現が書かれてあるのだからワイセツ罪が成立するという検察や法律家の言い分を崩すことは難しいと述べています。この実証的な法的言語観と文学的な言語観の分裂という体験から、吉本は「法」自体の概念の変更という考察へ進んでいったと思います。その時代のもっとも緊張した言語表現に内在するもの、それは言語の価値ですからまさに無形の価値ですが、それを「法」とみなさないとサド裁判の言語観の分裂という問題は解消できないということです。これは荒唐無稽といいたいくらいの斬新な考察なんですが、吉本の最後の思想として心にとどめるべきものだと私は思います。