歌が沈む。少年の日、僕は何をしてゐただらう。街の片隅で。はつきりと幼ない孤独を思ひ起こすことが出来る。執念ある世界のやうに少年たちの間では事件があつた。(夕ぐれと夜との独白)

吉本は自分の体験から思想的な枝葉を伸ばしていく人です。きわめて抽象的な論理の展開にも体験的な感性や記憶がみっしりと裏打ちしている感じです。その自己体験を再現し論理化し普遍化しようとするひたむきさが、吉本に「チョッキ」を着せなかったともいえると思います。少年期や幼年期というものは吉本がそれを書いているかどうかに関わらず、吉本のなかで微細に再現され、そこから吉本の考察が始まっていると私には感じられます。そういう意味では吉本はいわゆるインテリではなく、自分の人生を考える多くの庶民と同じ場所にいます。もう思い出したくもない自己体験や、心の奥にしまいこんで生涯をやりすごしたいくらいの自己体験でも、それを再現し自分のことだけではなく人間として降りかかる運命の普遍性というところまで考えを伸ばす、それはわたしが吉本から学び苦しいときに支えられた態度だと思います。
おまけです

「世界認識の方法」あとがきより (昭和55年 中央公論社)  吉本隆明
思想はその究極の像において、権力を無化するところに到達できるのか、権力の心臓があまりに明晰に解剖されたために、もはやそのまぶしさに権力が耐ええないというところまで認識は届きうるかということだけがなにかでありうる。