世界の三聖を釈迦、孔子、キリストと言ふ。釈迦は一番利口だから金仏になつてゐる。キリストも相当利口だつたらうが、惜いかな磔の像になつてゐる。孔子は馬鹿だから何にもなつてゐない。私が誰が一番好きかと言へば論なく孔子を第一 とする。決して用ひられそうもない大経論をふところに、狗のやうに諸国を廻つ た孔子こそは、私達が最も近づき易い感じがするのである(孔丘と老耼(たん)後記)

これは吉本が初期ノートの発刊のとき、自分の初期の文章を読み直して恥ずかしいと感じただろう若気のいたりのような文だと思います。つまりわかっちゃいないくせにわかったように書くのは恥ずかしいことですからね。あえていうなら、大きな思想を抱いているが庶民社会のなかにいるという姿に自分を重ね合わせているのが、吉本の人生を暗示しているといえばいえましょう。
吉本が孔子について触れたことはたいへん少ないと思います。しかし吉本は日本の近世の思想の歴史については深く考えていましたし、近世に大きな影響力を持っていたのは孔子の思想である儒教ですから、孔子についてもよく考えていたと思います。わたしが記憶しているのは、どこで吉本が書いていたのか思い出せないんですが、孔子の文章というのは二重になっていると指摘していたと思います。それは喩ということだと思います。論語などで説かれる「君子」というのは、立派な人物という意味だけでなく為政者を比喩している、君子の道というのは為政者の取るべき道ということだといっていたと思います。つまり儒教というのは支配の学であって、それを単なる日常的な道徳とみなしてはならないということだと思います。
もうひとつ思い出すのは「真贋」(2007 講談社インターナショナル)に書かれていたことですが近世の思想家である安藤昌益の考えを紹介しているところです。安藤昌益は我々が聖人君子だと思っている釈迦とか孔子とか老子といった人たちをみんなダメだといっているということです。なぜかというと倫理的にいいと思われることしか言っていないからだというのです。天然自然を主体に考えたら、いいことも悪いことあるのが当然であって、悪いことをいわないというのは、それだけでもうダメな証拠だという考え方だそうです。悪いものであっても、いいものであっても、すべてを肯定的に含めて考えなければいけないと安藤昌益はいっているということです。
安藤昌益のいっていることはいわば文学の立場に近いことです。善悪とか倫理・反倫理ということの境界が溶けていくような立場が文学の立場で、その問題を終生考えていた吉本が晩年に述べているこのことは印象的です。いずれにしても近世の儒教の影響を継続している日本の軍国主義下にいた若い吉本の孔子の像は、その後の思想の進展のなかで大きく変容していったことは分かります。
ここらで「母型論」の解説に移らせていただきます。前回書いたように「贈与論」と「定義論Ⅰ・Ⅱ」で触れられていない問題は、母型的な贈与がどのように近未来的な贈与に関係していくかという問題です。この問題を「価値」の問題ということで考えてみたいと思います。吉本が亡くなったあとの追悼集で中沢新一が「吉本隆明の経済学」という文章を発表しています。中沢新一は交換価値から贈与価値に近未来において転換が起こるという吉本の考えを紹介しています。中沢新一は、吉本は「言語にとって美とはなにか」のなかで、マルクスが経済の研究から着想した「価値」の概念を、文学の領域に創造的に転用したと指摘しています。経済の世界での「価値」と文学表現の「価値」とは密接な関連があるということです。貨幣や商品のような外在的な価値と、文学表現や芸術芸能のような表現の世界の内在的な価値は無関係ではないということになります。中沢新一は吉本はあらゆる形態の「価値一般」を串刺しにできる思考を生み出そうと努力していたと述べています。それは「歴史を起源からぶっ通す」という吉本の発言と同じことになると思います。
中沢新一は吉本には体系的に表現することはなかったが、折に触れての発言から読み取れる吉本独自の「経済学」の構想をもっていたといっています。その吉本の「経済学」が威力を発揮したのは現代資本主義のウェイトが生産から消費に転換しだした時期だったと中沢新一はいっています。その吉本の「経済学」の考察は「ハイ・イメージ論」の連作に結晶したと指摘しています。消費ともに吉本が関心を寄せたのが「農業」の問題です。農業では貨幣が介在しないところで、自然の循環をもとにした生産が行われています。それは農業というより柳田国男のいう「農」というありかたのことだと思います。自給自足というのが「農」の根源的なありかたで、そこには貨幣が介在しないわけです。したがって発展もなかなかしないわけで、農業地帯は貧困と人口減少にさらされていきます。そこから都市から農村地帯への、また先進国から農業国への贈与というものが考えられることになります。ここにも吉本の「経済学」が垣間見られると中沢新一は述べています。
『「吉本隆明の経済学」は実在する。それはヴァーチャルな空間の中に隠されていて、いまだにその全貌をしめしてはいない。しかしそこには未来への宝が埋蔵されている。合掌。』(中沢新一
「母型論」の全体を中沢新一の指摘するように「価値一般を串刺しにできる思考を生み出そうとする努力」という面でみることができます。近未来に想定される「贈与価値」は「無形の価値」というものを考察することにつながる。それはマルクスの価値論の限界を考察することになります。この「母型論」は「無形の価値」あるいは内在的な価値というものを根源から考えるために、にんげんの生誕の以前に考察をひろげたということになります。それは言葉の形成以前の内在性を把握しようとしているわけです。なぜそうしたいかというと、言葉の価値という吉本が「言語にとって美とはなにか」から考え続けてきた問題をさらに掘り下げるためです。この「母型論」でわたしが今まで解説してきたのがおおむね言語形成以前の問題だとすると、解説しきれていなかった部分のうち「起源論」「脱音現象論」「原了解論」の部分は言語がまさに形成される時期の問題を扱っています。それは「言語の価値」という無形の価値を分析する努力になります。そして経済の問題としての贈与を扱った「母型論」のなかの「贈与論」「定義論Ⅰ・Ⅱ」は経済的な価値としての「贈与価値」をテーマにしています。近未来において経済的な価値が贈与価値への転換で無形の価値を取り込むことになれば、それは言語の価値との関係がおおきく近未来の問題として浮上することを意味すると思います。そうした近未来へ向けての準備としての価値の考察として「母型論」の努力はあったということが考えられます。
マルクスの経済学の概念としての「価値論」を文学表現に転用して「言語にとって美とはなにか」を書いた吉本が、晩年に近くなって今度は文学表現の無形の「価値論」を拡張して経済の価値の概念である「贈与価値」の考察に挑んでいるともいえるわけです。そう考えれば、「母型論」の考察はにんげんのあらゆる価値形態に拡張できる可能性を秘めているといえるでしょう。