孔子は政治と言ふものが、民の中にあるのを知つてゐた。孔子は終に政治は一人の人民を救ふ事に遙かに及ばないのを悟つたのである。この点は現在に徴して私達に幾多の示唆を与へてくれるものがあらう(孔丘と老耼(たん)後記)

孔子の思想がここで吉本がいっているようなものなのかは私にはわかりません。しかし孔子を離れて、政治が民のなかにあるとか、政治はついに一人の人民を救うことに及ばないという考え方は後年の吉本の思想に継続していると思います。政治が民のなかにある、というのはあいまいな言い方ですが、大衆というものの構造が最大の問題であって、支配者の問題はこの構造のなかから考えることができるというのは吉本の大衆論の基本的な考想であったと思います。大衆のありかたが支配者のあり方を決定するわけです。
政治はついに一人の人民を救うことに及ばないというのは、「共同幻想」という概念を考察した吉本の思想的な核心にあるものです。その思想的な基盤はマルクスにあります。吉本は「カール・マルクス」(昭和44年 勁草書房)でこの問題に触れています。マルクスは「ユダヤ人問題によせて」という著作のなかでブルーノ・バウエルへの批判として政治的解放と人間的解放の問題をとりあげている。バウエルは政治的解放が人間的解放につながっていると単純に考えている。しかし政治的解放と人間的解放は位相を異にしている。バウエルはキリスト教ユダヤ教の廃止という政治的解放をそのまま人間の宗教からの解放という人間的解放につなげているが、それがバウエルの盲点である。なぜなら国家は宗教から発し、国家が宗教を切り離すとき宗教は現世の問題に変わるという国家と宗教の本質論がバウエルに欠けているからだ。宗教から人間が解放されていなくても、そのことを現世の問題として残したまま国家が専制国家から自由国家に変わるという政治的解放を成立させることはできる。人間が自由な人間でなくても、国家は自由国家でありうるということになる。
こうした吉本のマルクス理解は共同幻想論の根底にあるものです。「共同幻想論」は日本において宗教的な共同幻想がどのような構造になっているかという問題から、それがどのように初期国家につながっていくかという問題を扱っています。人間的な解放というものが共同幻想一般からの解放に究極にはつながるというのが吉本の思想的な見通しだったと思います。そのためにマルクスがバウエルを批判したように、吉本は当時の左翼の、すべてを政治問題に還元しようとする傾向への批判として、問題を根源的に掘り下げてみせたといえます。

おまけです。
ユダヤ人問題によせて」  カール・マルクス
人間は、そのもっとも直接的な現実、つまり市民社会のなかでは、現世的存在である。人間が自他にたいして現実的個人として通用するここでは、人間は一つの真実ならざる現象である。これに反して、人間が類的存在として通用する国家のなかでは、人間は空想的主権の想像的一員であり、自己の現実的・個人的生活をうばわれて、非現実的普遍性をもってみたされている」