恐らく精神についてのあらゆるものは、既に思考し尽されてゐる。僕にはただ一つの可能性が見える。それは古い精神の秩序を組織して新しい精神の秩序を組立てることである。僕には、感性を論理化する習熟によつて、論理を感性化すること以外にその道がないように思はれる。実践はここで、論理を感性化することの実証を、現実の変革といふことによつて与へるであらう。(原理の照明)

感性の論理化、論理の感性化、それは若き頃の吉本が固執した考えです。それは化学と詩とにはさまれた吉本の生き方とも関わります。吉本はこうした若いころに書いた自己思想と発表したことによる自己責任を生涯を賭けて背負っていったと思います。吉本の人生があったということが救いとなる、わたしにはそう感じられます。

おまけです
「宗教論争 吉本隆明・小川国夫(1998小沢書店)」より

麻原が言ってることは、今は宗教としか呼べないものですが、例えば遺伝子生物学が発展していけば、科学と宗教が同じものになるかもしれない。遺伝子を主体に考えれば、遺伝子は親から子へ伝わるんですから、前世も来世も存在すると言えます。ただ、それでは。遺伝子を擬人化しすぎだと思います。それに、オウムの修行によって前世に遡れるといっても、初めから信じることはできないと思っています。受精以前に遡れるというのは、無意識を一種の幻覚・幻想と接続できなければ駄目です。
しかし、無意識と幻覚の間の関係を考えて行けば、宗教でいう前世・来世に対する、精神科学的な理解は成り立ち得るのではないでしょうか。つまり、フロイトのいう無意識をさらに範囲を拡げて考えると、宗教によって幻覚をつくり出すという現象を科学的に解釈できるのではないでしょうか。そういう期待を持っているし、オウムは無意識の問題を改めて示唆してくれた。僕は、信と不信の境界に興味がありますが、そこが関心の中心になりますね。