(この関門を透らば おまへは宇宙にひとり歩むぞ) 真黒な石炭を詰込んだやうな私の心はこの言葉にふるへ感激した それなら透つてやらうと思つたのであるだ(無門関研究)

また私事の思い出話でお茶を濁しますが、なぜ自分が若いころに禅寺に行ったりキリスト教の教会に通ったりしたのかと考えてみると、思い出すのはもっと若いころのある夜、とつぜん母親も父親も自分自身もいつか死んでいなくなるということに突然気づいたことです。それは抱えきれないほどの衝撃的な想念でした。いままでなじんでいた現実の自宅の部屋がふいになにか別のものに変容したような気分でした。そういうことは誰の若いころにもあるんだと思います。しかしなにかこの社会の通念の範囲ではおさまりきれないものが、自分のなかにあるんだという気持ちは、「死」に気づいたころに芽生えた気がします。もはや超越的な理念や概念は周囲にない戦後の環境のなかに育ちましたから、どこかの宗教団体にそれを求めるしかなかったのだとおもいます。それが身につかず無宗教のまま現在にいたった理由はよくわかりません。たぶんその宗教団体を一歩出れば、その団体の理念はなまなましい世間のなかに流通しないということが納得いかなかったのだと思います。

おまけです。

マルクスー読みかえの方法」巻頭詩より    吉本隆明

顔もわからない読者よ
わたしの本はすぐに終わる 本を出たら
まっすぐ路があるはずだ
埃っぽい日がな一日かけても おわりまで着かない
しまいは蟻の行列のように
あちらからも こちらからも
あつまってきた一隊で
くたびれはてた活字のように
また一冊の本ができそうだ