これは日本の生んだ最高の芸能心理家である世阿弥が僕のごとき弱年に遺した条々である 僕は服従し且つ叛く 詩は花ではない けれど花に入り花と訣別しない詩が何の意味を持ち得るだらう 僕は僕の道をゆくと尚も嘯(うそぶ)くのだ(序跋一束)

世阿弥室町時代能楽師(その頃は猿楽といったらしいですが)で、世阿弥の能の流れにあるのが現代の観世流だそうです。世阿弥には有名な「風姿花伝」をはじめとする著作があり、ここで吉本が取り上げているのも「風姿花伝」の文章です。
「されば時分の花をまことの花と知る心が、真実の花になお遠ざかる心なり」(風姿花伝より)
これは時分の花をまことの花と勘違いしていると真実の花が分からなくなる、という意味ですが、「時分の花」というのはその役者がもっている素質が一番花開いた時期ということだと思います。たとえばキョンキョン小泉今日子が「なんてったってアイドル」を歌っていたころが「時分の花」だとすれば、その後いい女優さんになったと思いますが、その年増の女優としてもっている人間的な魅力を「まことの花」といっていいと思います。そういうことはアイドルでもスポーツ選手でも作家でもあるわけです。
では「詩は花ではない。けれど花に入り花と訣別しない詩が何の意味を持ち得るだろう」というのは何をいっているのか。どこで吉本が書いていたのか忘れてしまいましたが、作家の資質と時代について書いていたのを思い出しました。もとの文章に当たれないので多少間違っているかもしれませんが、そこはごめんねごめんねー。
吉本は「ある作家が若手の頃に評判になった作品を書いたとする、それはその作家のもっている資質が時代とちょうど呼応したということだ」と述べていたと思います。若いということはそれだけで時代と呼応する感性をもっているわけですから、「時代の子」という言葉がありますが、その時代が表現として求めているものと、その若い作家がもっている感性や表現力がちょうど見合って世間から注目されるということがあるでしょう。たとえば村上龍の「限りなく透明に近いブルー」とか石原慎太郎の「太陽の季節」なんていうのはそういう「時分の花」なんだと思います。
吉本はそういう「時分の花」はたいしたことではないのだといっていました。大切なのはそれを通り過ぎて、時代と自分とがずれを生じはじめ、時代や若さが自分の助けにならなくなったとき、自分自身のなかから掘り起こされるものが何かということだ。あ、思い出した。それは確か「源実朝」について書いた文章にあったんだ(/_・) 吉本はそこで「作家が自分の文学を見事に死なせることができるか」というようなことを問題にしています。見事に死なせることができると、その文学はよみがえることができる。しかし死なせきらないといつまでも仮死状態でよみがえってこない、というようなことです。そして実朝の作品は見事に死んだ文学なんだというわけです。死なせるというのは、自分の作家としてもっている内実を十分にえぐり出したということだと思います。そのことで時代と作家の関係が明瞭になります。だから別の時代によみがえるのだと思います。
さて、「母型論」の解説のほうに移ります。前回に書いたように、まだ解説していない手つかずの「母型論」を解説しようと思います。おおむね手つかずの部分はふたつのテーマになっています。まず「贈与論」と「定義論Ⅰ」と「定義論Ⅱ」をひとつのテーマをもつものとしてまとめて考えてみます。「定義論Ⅰ・Ⅱ」は現代の社会を扱っています。「贈与論」はアジア的段階以前の原始未開の社会を扱っています。共通するテーマは「贈与」ということです。現代の世界では経済は「交換」という原理で行われています。その「交換」に用いられるのが貨幣です。
現在の世界を産業構造として「第1次産業」「第2次産業」「第3次産業」という区分をもちいて考えると、先進国は「第3次産業」が産業の半分を超えている国家であり、アフリカをはじめとする貧しい国家は「第1次産業」が中心である主として農業国だということになります。そしてこの現状がこれからどうなるかを考えると、ひとつは「第1次産業」が中心の貧しい国家群が次第に先進国のように「第2次産業「第3次産業」を中心とする国家へと移行していく姿が考えられます。しかしもうひとつ道があり、それは先進国が貧しい国家群に対して「交換」でなく、「贈与」をする経済を作り出すというものです。
先進国(第3次産業が産業の半分以上を占める国家)は第1次産業である農林水産業の占める割合が減少しているため、食料の供給を第1次産業中心のアフリカをはじめとする国家群から得ている。その構造のために、貧しい国家群は貧しさから離脱することができない。第1次産業というのは貧しさから離脱できない産業だからだ。その貧しさが産業を第2次、第3時と高度化させる動機にもなっている。そして貧しい国家群は財政の赤字を先進諸国から金を借りることでまかなっている。しかし貧しい諸国のその対外債務というものは、今後返せるとはとうてい考えられない。それは実質的には贈与したと同じ事態になっているわけだ。しかしそれは「交換」という原理にのっとって行われている。だからこの事態を「贈与」という概念でとらえて、「贈与」を新しい世界経済の原理として考えなくてはならない段階にあるのだというのが吉本の主張だと思います。
ところで「贈与」という概念は歴史的に大変古い時代から存在するものです。それは未開原始の時代から始まっている。つまり歴史の「母型」のところから存在するのが「贈与」だということです。そこで現代から将来の世界に登場するであろう「贈与」の概念を、歴史の「母型」のところから考察し、それがどのように現在によみがえるべきかを把握しようというのが吉本のモチーフなんだと思います。なぜ乳幼児期、胎児期の心身の問題からはじまった「母型論」が、突如として歴史や経済の問題に移ったのかといえば、それは吉本には心身の母型と歴史の母型を関連付ける方法があるからです。
そういうわけで「贈与論」で追求されていることは、現代社会を扱っている「定義論Ⅰ・Ⅱ」とリンクしていますし、また今まで解説してきた「母型論」の誕生以前、誕生、乳幼児期と言語の発達の問題といういっけん関連のなさそうな記述ともリンクしているのです。では「贈与論」を概観してみます。贈与論は原始未開の時代を扱っています。原始未開というのは「アジア的段階」のさらに以前の歴史時代で、吉本が「アフリカ的段階」という呼び名でヘーゲルへの批判もふくめて展開していた歴史段階です。
おおざっぱに「贈与論」はなにをいっているのか。「贈与論」はマリノウスキーが原始未開の社会をフィールドワークして書いた論文と、モースの「贈与論」という著作を考察の土台にしています。吉本は「贈与」というものの発生は「母系社会」と不可分だといっています。母系社会、母系制というのはなぜ生まれるのか。それは男女の性交が妊娠の原因だという認知がまだない社会だということです。性交と妊娠の関連など思いもつかない段階では、現代の父なし子でもそうですが、母方の兄弟、親、親族との関係がおおきくなるわけです。つまり母系になります。それは子を産んだ女性はその親族の一族のなかにあり、それを氏族と呼びます。母は母方の氏族の一員であるわけです。
では生れてきた子供はどこからきたものとみなされているのか。それは母方の実の母や兄弟親族の霊魂が胎内にはいって、それで妊娠すると考えられています。それは母方の親族の霊魂から授かった「贈与」として生まれる子供をみなしたということです。この時代の状態を暗示しているのはアジアの沿岸部や日本の南島、南洋の島々に伝わる神話です。それらの神話では共通してある兄弟ふたりが人間の始祖になったとされています。またその兄妹ははじめは性交を知らなかったが、鳥の交尾を見たりして性行為を覚え、それによって子孫を増やしたとされています。こうした神話の特徴は兄妹を人間の始祖とみなしていることから母系制の初期社会(原始未開の社会)の存在を暗示していると考えます。また性交を知らなかったというところから近親姦の禁止が暗示されるわけです。こういう神話からも生れて来る子供が母方の兄弟親族の霊魂が贈与されて生れて来ると考えられていた歴史段階が想定されます。
重要なのは、歴史の古い段階では氏族の内部で近親相姦が行われていたとみなされていますが、やがて近親姦の禁止というものが発生してくることです。すると近親姦のタブーの以前は氏族内婚制であり、近親姦の禁止が登場すると他の氏族の異性を求める氏族外婚制へと移行するわけです。だから父(夫)は他の氏族の男性であるということになります。
ところでこの段階で「父(夫)」はどのようにふるまうのか。父(夫)は母(妻)との性的な親和感がある。そして自分たちの性行為が子供の誕生と考えないとしても、母(妻)と子への愛情はあるということになると考えます。マリノウスキーがトロブリアンド島のような初期社会の遺風を色濃く残す社会を観察し、それを土台に考えた初期社会では父(夫)の家で母(妻)や子供たちはともに暮らすこともあるとみなしています。すると父(夫)の立場はたいへん微妙なものです。父(夫)は母系優位の氏族のなかでは「よそ者」(他の氏族の一員)とみなされるが、同時に父(夫)には母(妻)や子供との親愛感が強くあり、それを無視することもできません。そこでしだいに父(夫)の役割と存在感は強くなり、それは父方の氏族と母方の氏族との関係へと展開していくのだと思います。そして父(夫)は妊娠の原因とは考えもされていないが、しかし父(夫)とその氏族のもつ霊魂の力(霊威)が母(妻)の妊娠出産に関わるとみなされるようになったと考えます。そこに母の氏族から父の氏族への「贈与」と父の氏族からの返礼という習俗が発生していきます。
最初に子供の誕生を母の氏族の霊魂からの「贈与」とみなし、やがてその生命の「贈与」に父の氏族の霊魂からの霊威が関わっているという認識になり、それが母の氏族から父の氏族への贈与と、父の氏族からの返礼という習俗に展開すると考えるわけです。
そしてさらにこの母の氏族からの贈与というものを、一夫多妻によって拡大するとそれは複数の母方の氏族からの贈与によって父方の氏族の霊威が拡大することを意味します。その積み重ねられた霊威が婚姻関係を離脱するにつれて、積み重ねられた霊威は「権力」に転化していくと考えます。そして贈与は不変的な贈与ともいうべき「貢納」へと転化し、貢納を受ける権力は「専制」という概念に対応する。するとこの段階で未開原始の段階が「アジア的段階」に移行するとみなすわけです。
おおざっぱに「贈与論」の骨格を概観してみましたが、これが吉本が「贈与」の概念の「母型」として考察したところです。もう少しくわしくこの「贈与」の母型の問題を解説していきたいと思います。