●それにもかかわらず、ある個人の未成熟な経路が、時間的な順列にしたがつていくらか公的な性格を帯びてよみがえるとすれば、そのかげに、言語に尽しがたいほどの愛惜の努力がかくされているとかんがえられる(過去についての自註)

この文章は吉本隆明の初期ノートのなかの「過去についての自註」という文章の冒頭部分にあたります。この文章には前段があって「あるひとつの思想的な経路は、それを「個」としてみるとき、あるひとつの生涯の生活を「個」としてみるのとおなじように、それ自体、どんな普遍的な意味ももっていない。どんな大思想についても、小思想についてもこの事情はおなじことである」という文の後に上記の引用の文章が続くわけです。誰かの思想の経路を個としてみるときには普遍的な意味はない、というのは(ある人の思想をその考えた人自身との関係としてみるかぎりは)という意味じゃないかと私は思います。その人の思想もその人の人生も、その人自身にとっては貴重な取り換えのきかないものです。それは大思想でも小思想でも平凡な人生でも波乱の人生でも当人にとってはそういうものでしょう。その個の思想や人生に公的な意味、つまり普遍性が生じるのはそれが他者との関係に置かれるときだということになります。それで吉本の場合に吉本の個としての若年期の思想の経路が公的な意味をもったのは、川上春雄という人がたんねんに吉本の同人誌などの作品を捜し歩いたからです。だから「尽くしがたいほどの愛惜の努力」というのは川上春雄氏の努力について言っているわけです。
だいたいこういう吉本の述べ方というのはまわりくどいというか、個と公的なものとの違いにたいへんこだわったところで述べられているので、わかりにくいと思います。しかしこれが吉本節と申しましょうか、好きな人には好きなところです。個の思想はどんな思想であっても、個にとっての価値は同等だ、ということをあえて書くというのはどういうことか。なぜそこにこだわるのか。吉本の初期ノートに書かれた10代から20代にかけての文章は公表されたとしても、学内の同人誌程度であって公刊されたものではありません。当時読んだ人は数十人くらいのものでしょう。それで本来はすんでしまうもので、初期ノートに書かれた思想がどんなに優れたものであってもそれは吉本の孤独な思想として社会のなかに秘められて隠されて埋もれていったはずのものです。そこで吉本のこだわるのは、ひとつは秘められ埋められていく大多数の個の思想や人生が公的な意味をもつにいたる契機なんだと私は思います。つまり発表するとか公刊するとかいう形で広く世間に提供される、どれだけの人が金を出してそれを受け取るかは別にして、そういう形で公の意味をもつ契機は何かということだと思います。もうひとつは、じゃあそういう契機に出会わない孤独な思想や人生、大多数の公的な意味をもたずに秘され埋もれていくあなたや私の平凡な思想や人生というものをどう考えたらいいかということだと思います。
ふつうはそういうことにあまりこだわらないでものごとは進むものでしょう。しかし時には「文学だの芸術だのは自分だけで書いていればいいんで、大勢に見せたいというのはなぜなんだ?それは不純なことじゃないのか?」というような(青臭い)ことを言う人がいるわけです。また一方には「一生歌いつづけていきたいです!」みたいなことをいう歌手がいます。(勝手に歌いつづければいいじゃん)と思うわけですが、きっとその歌手は一生大勢の人に歌を聴いてもらいつづけていきたいんでしょう。それはこだわっていえば、個としてカラオケでもして歌うということと、公的な歌の発表ということをごっちゃにしてる気味があるわけです。
吉本には「マルクス伝」というマルクスの評伝を書いています。そのなかに(吉本読者には)有名な一節があります。
「ここでとりあげる人物(マルクスのこと:註ヨダ)は、きっと千年に一度しかこの世界にあらわられないといった巨匠なのだが、その生涯を再現する難しさは、市井の片隅に生き死にした人物の生涯とべつにかわりはない。市井の片隅に生まれ、そだち,子を生み、生活し、老いて死ぬといった生涯をくりかえした無数の人物は、千年に一度しかこの世にあらわれない人物の価値とまったく同じである」(吉本隆明マルクス伝』)
この断言のなかに吉本が徹底的に考えてきた大衆についての思想がマグマのように底流していることを感じます。公的な意味をもたず、秘されて隠されて歴史のなかに埋もれていく大衆の思想と人生というものが、吉本によって徹底的に考えられ、その大衆についての思想が物書きとなった吉本によって公刊されるということは、初期ノートの文脈にそっていえば吉本が大衆の思想と生涯を愛惜したからだということになります。その愛惜ということが契機であったということになりましょう。
吉本の有名な(吉本読者にはですが)文章として(自分がものを書くうえで一番問題にしているのは、自分の文章の読者ではありません。自分の文章など生涯読む契機をもたない大衆です。その知の世界に足を踏み入れようとしないで自分の生活圏に立てこもっている大衆に、自分の思想が打ち勝つことができるかどうかが最大の問題です)という意味の文章があります。この通りの文ではないですが意味はあってると思います。ここでも吉本にとってマルクスも市井の親爺の人生も等価である、という思想が本気のものであることがあらわれています。吉本は本気でマルクスとあなたや私の平凡な人生の価値が同じだと考えていた。あなたは自分がマルクスの人生、マルクスじゃなくてもレオナルド・ダ・ヴィンチでもレオナルド・デカプリオでもマライア・キャリーでもいいですが、そういう歴史や文化のなかで華々しい公的な意味をもった存在と自分の人生が等価だと思いますか?思ってないね。
しかし、もし世の中を変える思想というものがあるとしたら、この吉本の大衆についての考え方を必ず踏まえたものだと私には考えられます。なぜならこの思想にはあなたや私の胸に突き刺さるものがあるからです。思想を他人事にさせないものが。とはいえあなたはともかくとして、わたしの人生や思想はとてもマルクスや他の偉人に及ぶものではないという素朴な感想をもつことからも逃れられません。そこで問題を腑分けしてマルクスの千年に一度しか現れないような思想の才能、巨大さ、徹底性、豊饒さというものと、マルクスの個としての人生というものを分けてみます。そしてマルクスでもマライア・キャリーでもいいですが、その人生から公的な意味を付与されたもの、つまり描かれたり報道されたり映像化されたりしたということをさっぴきます。するとマルクスでもデカプリオでも沢尻エリカでも、その個としての人生はその人との関係でいえば孤独な秘されたものであるといえるでしょう。そしてさらにその人の人生というものを、その人の意識のなかにあるものだけに限定しないで、もっと無意識の膨大さを含んだにんげんの普遍性のなかにときはなちます。するとものごとを公的な意味のほうから考えがちな考え方がしだいに溶解していくように思います。それは自分というものの考え方が公的な意味をはみ出して大きくなることです。また自分とどうようにあなたやおおくの大衆についての考え方が大きくなることだと思います。そういう大衆についての思想というものが、母型論を含む歴史観の拡大というテーマにつながっていくと考えます。
だからわたしはわたしを大きく考えたい。あなたのことも大きく考えたい。それはあなたが偉大な人物だと思うということではぜんぜんなく、またあなたが公的なところに出ていくべきだと考えるからでもまったくないんですが、生命と歴史というもののなかで普遍的な価値をもっているというように考えたい。現在の公的な意味という限定された価値に振り回されたり、押しつぶされたりしない根拠をもつ存在という理解をもちたいということです。