夏目漱石の孤高は内的には惨憺たる自意識の格闘があり、外的には周囲の低俗との激しい反撥に露呈してゐますが、この根源に於て人間性に対する暖い愛を感じさせ、その愛が余りに清潔であつたための悲劇と解することが出来ます 漱石の苦悩には暖いものがあふれてゐるのです(或る孤高の生涯)

ここで若き吉本が述べている漱石の孤独の底には人間性への愛があり、しかしそれがあまりに清潔であったために悲劇を生んだとか、また後半のノートの文章にあるように宮沢賢治の孤独の底には人間性に対する愛は発見できず、それは科学的な修練が人間性への開眼に先行したためだ、という観点はさすがに鋭いものだと思います。しかしその後の吉本の追求を考えれば、的に当たっていても的を射ぬいたとはいえないものだと思います。
漱石についての分析は母型論にも関わってきますので、「共同幻想論」のなかの「対幻想論」をもとに吉本の漱石のその後の理解を辿ってみたいと思います。共同幻想論のなかの対幻想論のテーマは「家族」とは何かということです。人間的な家族とはいつ、どのような理由で歴史的に発生したのか。また家族は共同社会や個人という位相とどのように関係しているのかということになります。「家族」の発生ということではモルガンーエンゲルスの「原始集団婚」という概念があります。それからフロイトの考察があります。吉本はモルガンーエンゲルスフロイトの批判から自身の「家族はなぜ発生したか」論を展開しています。吉本によればフロイトが最も考察に苦心したのはエンゲルスと同じようにどのようにして集団の心(共同幻想)と男女のあいだの心(対幻想)を関係づけるかということでした。個人の心(自己幻想)というものは原始の時代にはまだ大きい意味をもって登場することができません。それはいわば共同の心のなかに溶けているようなあり方をしたと私は思います。しかし集団の心と男女の心は次第に矛盾をあらわしていくだろうと考えます。エンゲルスの「原始集団婚」の概念は人間が族内婚を行っていた段階ではいわゆる「乱婚」状態であったろうとみなすものです。しかしこの考えを吉本は批判します。吉本の批判は人間の幻想性に関わる本源的な批判です。
人間に乱婚の状態があったとみなすことは、その時期に人間が動物生の時期にあったとみなすことです。これは人間がサルのような高等動物から進化したのだというダーウィンの進化論に根拠をおいているわけです。しかし吉本の考えでは動物からの進化という概念では人間という存在を十分に規定できないということになります。人間は人間に特有の幻想性が獲得されることによって初めて人間になる。幻想性というものを設定しない進化という概念で考えるから動物生と人間の性のあり方を同一視する見解が生じるとみなしています。
エンゲルスが「原始集団婚」の概念を考えたのは、そう考えると集団の心と男女の間の心の関係が無矛盾になるからです。一対の男女という関係が刹那的なもので、集団的な乱婚が恒常的なものであれば男女の間の心が大きく登場する意味がないからです。
これに対してフロイトの「家族の発生」論は「原始群族の父祖」という概念をはじめに設定すると吉本は述べています。自分たちの群れの先祖であった父祖です。この父祖は原始的な集団の息子たちにとって理想の対象であり畏怖の対象でもありました。つまりタブー(禁制)の対象である両価性をもっていました。そこで息子たちは団結して「父祖」を倒した。しかし息子たちは互いに争い合って「父祖」になり替わることができなかった。そこで息子たちは「父祖」になることを断念した。その代り禁制の対象である物(たとえばトーテム)で「父祖」を象徴させることになった。しかし息子とたちは「父祖」でありたいという願望を圧殺することができなかった。そこで集団のなかにおいてではなく「家族」のなかで「父祖」としての位置を満足させることになった。こうしたフロイトの考えはエディプス・コンプレックスの存在から導き出された歴史に対する考察です。もっと詳しくフロイトの考察は解説されるべきですが、先を急がせてもらいます。
フロイトはこの考察で集団の心と男女の心の関係についてフロイトなりの解釈をつけたことになります。「父祖」という集団の心に属するものを家族に関係づけているからです。そしてその根拠となるエディプス・コンプレックスの存在は、エンゲルスが「原始集団婚」の根底に人間の動物生とみなされる時期という考えを老いているのと同型です。吉本が批判するのは、フロイトは集団の心(共同幻想)と男女のあいだの心(対幻想)の関係を集団と個人の関係とみなしたということにあります。男女のあいだの心は個人の心ではなく、対となった心であるからです。吉本によればフロイトの思想は対幻想の内部の考察として考えれば重要な妥当性をいまだにもっている思想であるが、フロイトの欠陥は対幻想という概念を設定できなかったために対幻想の構造をそのまま共同性や個人やその歴史に拡大解釈してしまうところにあるというものです。
では個人の心(自己幻想)はどう考えたらいいのか。私たちの現在の悩みや希望や病気の入れ物であるこの個人の心というものは、吉本によれば原始の時代に共同体とそのなかの「家族」とがまったくちがった水準に分離したとき、はじめて対な心(対幻想)のなかに個人の心(自己幻想)の問題がおおきく登場するようになったということになります。そして「それはもちろん近代以後に属している「家族」の問題である」と述べています。
そしてこのことに具体的な例として漱石の「道草」という小説が紹介されています。やっと漱石にたどり着きましたね(’_’、)漱石は英国留学をします。それは非常に「不愉快」な体験でした。そして英国留学を契機にして漱石の夫婦関係は破たんしています。なにが破たんかというとつまり夫婦の対なる心が存在しなくなったということでしょう。俗にいえば愛がなくなったということです。しかし漱石には対なる心に対する巨大な思想性というものがあり、メタフィジックがあってそれを求めざるをえない。しかし奥さんのほうには愛がなくなっても世間の習俗にしたがって夫婦関係を続け、夫には夫の義務としての生活費を稼いでくることを要求する。漱石のほうは対なる心を見いだせず個人としての心が残されていくのに、奥さんのほうはいわば実家や親族と一体になった習俗に従う心しかない。吉本によれば漱石の営んだ家族は「ひでえもんだ」といわざるをえない悲劇であったということです。この悲劇の本質はどこにあるかといえば、習俗としての「家族」と対幻想としての本質的な「家族」との間の距離だといえます。こうしたことはいくらでも世間にあるもので、難しい言葉を使わなくても、家族を維持していかなくてはいけないという世間的な配慮と、ほんとうの男と女の愛は違うんじゃないの?という疑問として、あなたも胸に覚えがあるでしょう?あるにきまってるよ。
しかし漱石や同じように「半日」という家族小説を書いた森鴎外の文学者としての優秀さは、こうした世間にありふれてみえる家族の内部を優れた文学として表現してみせたことにあると吉本は考えます。これがいわゆる「搦め手からの眼」であり、前回解説したように太宰治が批判した「洋行帰り」の学者連中のように内側にある自分の悲惨さや、共同体の一員とは違うあり方をする家族内の自分や個人としての自分のあり方に鈍感な精神が失っている眼なんだということです。
漱石というのは巨大な文学的存在であって、吉本が太宰治宮沢賢治とともに力をこめて批評を行ってきた作家です。解説したことは山ほどありますが、いわば実存的にいうと漱石は吉本の考えでは同性愛的な性のあり方をもっている人です。同性愛の性行為をしたという意味ではなく、性のあり方が同性愛的、あるいは均一性的、ホモジーニアスだと吉本は考えていると思います。それは漱石の育ち方からきています。漱石は母親というものから疎外されて育ちました。1歳くらいで養子に出されます。その生い立ちから漱石には女性というものがよくわからないのだと思います。だから漱石の性としてみた世界は均一で、女性というのはいつも突然登場する異物のようなものであったと吉本は述べています。こうした漱石に資質が対幻想としての夫婦に現実のありようを越えた巨大なメタフィジックをもたせ、そのことで現実の漱石がさらに傷つくという関係にあったともいえるでしょう。
テーマが大きすぎて舌足らずで終わりますが、とりあえず新年おめでとうございます。今年もよろしくおつきあいください。