併るに宮沢賢治の孤独は周囲の低俗との調和を保ちながら、実は徹底した冷たさを感ぜずには居られません 人々は彼の孤独に於て人間性の底に横はる愛を発見することは出来ないのです  常人は彼の孤高の心を思ひやるとき、寒くふるへずに居られません それは科学的な修練が、人間性への開眼に先行したからに外ならないと思ひます(或る孤高の生涯)

科学的な修練が人間性への開眼に先行したから、人間性への愛を見いだせなかったというのは考えられない気がします。科学的な修練などにたづさわる以前に人間は家族のなかで愛情を見出すものだからです。しかし吉本が洞察したように、宮沢賢治のなかに普通の人とは違う性的なあり方があったのは事実だと思います。それがなんなのかを吉本はその後さまざまに追及していますが、それはまた機会があれば解説したいと思います。

おまけです。

共同幻想論」のなかの「対幻想論」より<性>としての人間はすべて男であるか女であるかのいずれかである。しかしこの分化の起源は、おおくの学者がかんがえるようにけっして動物生の時期にあるのではない。あらゆる<性>的な現実の行為が<対なる幻想>をうみだしたとき、はじめて人間は<性>としての人間という範疇をもつようになったのであるといえる。<対なる幻想>がうみだされたことは、人間の<性>を社会の共同性と個人性のはざまに投げだす作用をおよぼすことになった。そのために、人間は<性>としては男か女であるにもかかわらず、夫婦とか、親子とか、兄弟姉妹とか親族とかよばれる系列のなかにおかれることになった。いいかえれば<家族>がうみだされたのである。