もう一週間に近くてもまるで身体を八裂きにされたやうな傷心は消えてゐなかつた 頭脳はもう動かず何も為たくなくなつた 電車に乗ればもう停るのが唯つらいのである 走るのが又つらいのである 電車を降りれば歩くのがつらいのである 歩けば止るのがつらいのである 私は無門関の最後に来た 私は今こそ無門関を直視すべきだと思つた もう二週間この状態が続けば私は精神分裂症となるのである(無門関研究)

吉本はいわゆる理性的すぎるゆえにオカルトとか宗教とかに違和感をもっているという人物とはちがいます。逆にオカルト的なもの宗教的なもの、現世を超越したものにたいへん心を惹かれる資質をもっていたと思います。そうした資質は娘の吉本ばななにも受け継がれている気がします。しかし一方で化学の修練があり、またたいへんに論理的な厳密な資質ももっていて、その葛藤が苦しみを生むんだと思います。吉本がオカルトとして考えられている透視とか予知とかの能力について、どう思想として捉えることができるかというような文章を書いている時に、「ただこうした論議にはどうも展開性がないような気がするんですよね」といっていたのが印象に残っています。たとえば「スプーンを曲げることができるとして、それでどうしたの?っていえばおしまいじゃないか」といっていました。それと同じことが原始仏教のもっている肉体修練のなかにもあり、人間が無機物に近づくことができたとしても(それがどうしたの?)ということが言えばいえるかもしれません。そこまで肉体修練に生涯をささげられない大衆は世間のなかを生きながら苦しみのなかに取り残されることは変わらないからです。吉本が親鸞が好きなのは、そうした肉体修練とともに成り立つ思想のもつ偏狭さがないからだと思います。

おまけです。原文だからわからないでしょう。私もわかりません。

正法眼蔵」より         道元

 仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするゝなり。自己をわするゝといふは、万法に証せらるゝなり。万法に証せらるゝといふは、自己の身心を(お)よび他己の身心をして脱落(とつらく)せしむるなり。悟迹(ごしやく)の休歇(きうけつ)なるあり、休歇なる悟迹を長々出(ちやうちやうしゆつ)ならしむ。