やがて痛手は何かを創造するであらう。自然のやうに人間は抑圧をエネルギーに化するものだ。(原理の照明)

この初期ノートの部分、心の傷はやがて現実に対するたたかいのバネとなるという考えはこの頃の吉本の文章によく出てくるものです。この考えには科学の徒である吉本の特色があらわれていると思います。こころをエネルギーと考えれば、抑圧はやがてどこかにエネルギーの発露を見出す。エネルギーをリビドーと言い直せば、これは昇華とか神経症とかナルシズムというような形で性の欲動の抑圧が別の通路を見出すという考えにつながります。
そんなわけでまた「母型論」のほうへ話をそらせてまいります。前回も書いたように今は亡き吉本は「母型論」の考察を赤ん坊の心身の解明それ自体だけでなく、その解明がこの世界の総体像の解明につながるはずだというモチーフを持っています。そこで話はそれますが、私にはこの「母型論」のモチーフが吉本が親鸞について語る時の親鸞の思想としての「浄土
の概念に繋がるように思えてならないです。吉本によれば親鸞の思想的、信仰的な核心である「浄土」とか「往生」とか「涅槃」というような他界の概念には二つの意味がある。一つは死後の世界という意味で、これは通常の「あの世
という意味に繋がります。しかしもうひとつ親鸞が抱いている「浄土
の概念があってそれは死後の世界ではない。その浄土の概念を親鸞は「正定聚の位」という言葉で述べていて、細かいことを抜きに要点だけをいえば、「正定聚の位」というのは生と死のあいだにあって、過去の未来のあいだにある、そしてその「正定聚の位」に目覚めれば、この現実の世界が違う見え方をするということです。それは信仰の内部にいる者にも外部にいる無信仰の者にも可能なあり方であると吉本は考えます。これが吉本の親鸞論の核心にあるもので、私にはさっぱりその「正定聚の位」の内容がわかりませんでした。
吉本は副島隆彦のいうように「挫折した革命家」であるでしょう。そして吉本は単独で社会的責任を負い、社会の変革のかたちを刻々の現実の分析を怠ることなく構想しながら生涯を終えた。だから吉本の思想は古典を題材に取ろうと、幼児期を題材に取ろうと常に現在の社会との緊張関係をもって存在しています。そこが学者と異なる点です。現在の社会がこれからどうなるかという未来予測のなかで、自分の追求がもつ意味を考えているわけです。吉本は一般大衆が必然的に社会の中心にせり上がってくるだろうということを、未来の社会のあり方の根底に考えていました。その時に、つまり一般大衆が最大の影響を与える社会が到来するときに、なにが一般大衆の思想を支えるか。親鸞の「正定聚の位」という抹香臭い言葉が指し示す内容が、実は根底的な現在的な意味を持っていて、つまり「生き体」であってその解明が大衆が本格的に登場する未来に追いつくか追いつかないかということを重要と考えていました。そういう吉本の晩年の思想、いわば「最後の吉本」の思想は「母型論」のなかにあります。こういうことをこれ以上解説してたらまた紙数が増えて大変なので、要するに「母型論」というのは親鸞の生きている中にある生と死のあいだの位置という「正定聚の位」というものを解明しようとするものだという、吉本がそう言っているわけではないんだけども、私の思いつきとして書いておきます。
寄り道が長くなってしまいましたが、「母型論」のなかで胎乳児の心的な世界を「大洋」と名付けています。それは内臓系のこころの表出と体壁系の感覚とが縦波と横波のように織りなされ広がっていく大海原のイメージです。そこに言葉はまだない。胎児期を別にすれば、あるのは乳房としてあらわれる母親とそれを吸ったり掴んだり見たり嗅いだりする乳児の関係です。そしてそういう身体的な関係だけでなく、母親が食として与える乳が同時に性としてのエロスとかリビドーとか性の欲動とか、どう呼んでもいいですが、心的なエネルギーの補給にもあたっている。それを乳児は受動的にいわば男児も女児も女性的に受容する。そして母親の意識も無意識もこの食と性との同時性のなかで乳児の身体のなかに流れ込んでいく。そしてこの性と食との二重性が乳児期を脱しても生涯の心身の根底に消え去らないとすれば、にんげんの身体の各部にはエロス核というべき性の感覚が生き続ける。にんげんはパンのみにて生きるものではなく、この根源的なエロスの備給によって生きる。
そんなわけで、この大洋期がそれからどうなるかというと、言語の獲得ということになるわけです。大洋期の乳児が言語を獲得する過程のなかに、難問題である男児と女児はどうして分化していくのかという問題が重なります。そして言語を獲得するという過程は性とどのように関わるのかということが難問です。性と関わるがゆえに、フロイドとともに吉本は精神病というものの根源をこの大洋期が言語をどう獲得するか、あるいは獲得しそこなうかということに求めていくわけです。
だから大洋期の言葉なき世界が言語とどう接触するかということが興味深いところです。言語を獲得するという初源のところで獲得されるのが「母音
だと吉本は述べています。母音というのは日本語でいえば「あいうえお」の五母音です。世界中が五母音なわけではなく、三母音とか六母音という母音の形態もあるそうです。この母音が最初の音声としてあらわれた後、子音とか分節化という音声の複雑化が生じて言語が豊富になるんでしょう。そして日本語とか英語とか中国語とかという民族語、種族語というものが多様に存在するわけです。そこでなぜ人類の言語は民族語、種族語として多様になるのかという問題が起こります。同時に人類の音声の共通性はどこにあるかという問題も起こり、それは母音ではないかということになるんだと思う。なぜ共通性としてくくれるかというと、それは喉から空気が通って口と鼻を経て音声として空気を震わせて耳に届く、その過程を支える喉や口や鼻の身体としての構造は多少の違いはあっても人類共通じゃないかということです。母音だってひとつじゃないわけだから、内臓から送られる空気を喉や口や鼻の筋肉を使って日本語なら五つに分化している。これとその後の、つまり「あいうえお」以外の発音と、それ以外の「か」だの「つっ」だの「う・み」などとどこが本質的に違うのか。それは知りません。ただ最もシンプルに出すことが可能な音声が母音なんじゃないか、くらいにしか私には分からない。ただその後分節化した音声を出すに至る過程が、民族、種族の習俗の違いに影響されるだろうということを吉本は言っています。すると母音が人類共通であるとすると、その基盤は身体の構造の共通性でありますが、それと同時に母子関係のあり方の共通性にもあると吉本は考えています。つまり声を出すという言語獲得の始まりには身体だけではなく、内臓と感覚の織りなす大洋のこころの表出だという面があるからです。そしてもうひとつ言語が分節化するということが太古の人類、つまりお猿さんから分化する人類の始祖にとって大変なエロス核の集中にあたり、またその集中をうながす性対象がたった一匹の雌であった(あるいは雄)という吉本の考察もあります。エロス核の極度の集中というのがミソです。でもそれはまた今度。
ではこの乳児でさえ「あー」とか「う〜」とかいうその母音が言語といえるのかという問題が起こります。そこで問題を複雑化させるのが角田忠信という学者の業績である日本人とポリネシアの語族だけが母音を左脳の言語脳で聴き、それ以外の語族は右脳(非言語脳)で聴いているという学説です。これが凄い。でももう今回は長く書いちゃったのでこのへんでやめますが、吉本が、私の考えでは「正定聚の位」に達しようとする生涯の思想を込めた展開をしていますので、うまく解きほぐしていくのは生きながら浄土に達するくらいに難しいわけです。南無阿弥陀仏(-∧-)