老人は枯れた声で言つた。〈お前のやうな年齢(としごろ)で感じてゐたことは、やがてわしらの年齢(としごろ)になると透明な屑になつて空のなかほどに浮んでゐたりする。やがてお前はそれを視るようになるよ。そんなときどんな風に感じるのかつて言ふのかね。みんな枯れてしまふのさ。世界はすべて枯れてしまふ。〉(〈少年と少女へのノート〉)

これは前に解説したように吉本の自伝的なフィクションである「エリアンの手記と詩」の世界のなかで書いている文章です。老人はおそらくオト先生というキャラクターで、20代の吉本はここでオト先生の言葉を借りて「老い」について空想しているわけです。文体は宮澤賢治の模倣であると思います。「老いるとみんな枯れてしまう
と若い吉本は考えている。しかしどうもそうではないようです。現在87歳の吉本にインタビューした記事が昨年の5月に毎日新聞に掲載されていました。その記事の出だしがなかなかいいので引用します。
「雨がポツリポツリと降るなか、路地奥の行き止まりに自宅はあった。案内されて和室で座布団に座ると、隣には白い猫が1匹。吉本さんは四つんばいで現れた。糖尿病や前立腺肥大、足腰の衰えなどで、体が不自由な状態にある。日本の言論界を長年リードした「戦後最大の思想家」は、そのまま頭が床につくくらい丁寧なお辞儀をした。白内障の目はこちらをまっすぐ見つめていた。」(毎日新聞1911年5月27日夕刊)
吉本のインタビューは福島の原発事故に関するもので、吉本の見解は「今回の事故で原発を廃止しろという考えは間違いだ
というものです。つまり反原発とか脱原発という大衆的に主流になりつつある主張に対して真っ向から異論を語っています。以前の解説でも書いたのでこの吉本の見解についてここで詳しく書くのはやめます。吉本の見解をよく読めば、真実を語っているのが分かりますし、どんなに発言するのが厳しい風当たりの強い状況でも単独で発言する吉本の姿勢をいつもながら尊敬します。しかし私がここで言いたいのは、これが吉本自身の老いの姿であり、そこでは「すべてが枯れてしまう
という「老い
のイメージは修正が必要だろうということです。私は介護職ですが、介護職で職業的に老人と接しているから老人が分かるというわけではありません。むしろ逆に職業的なメガネをかけている分だけ見えないものがあるはずです。老人や認知症と呼ばれている人たちの内面と身体になにがあるのかを解く難しさは、にんげんとは何かということを解く困難と同じです。
というようなことでいつものように「母型論」の方へ強引に舵を切っていくとう寸法です。
今回は「母型論」の記述から始めないで、私の個人的な経験的な疑問から始めます。そしてその疑問を解くカギを母型論の記述のなかに求めようというわけで、うまくいくかどうか書いてみないと分かりません。人生における人間関係のなかで何度か同じようなことにぶつかったわけですが、つきあっているうちに何故か突然相手が穴ぼこに落ちたように変容してしまうことがあります。突然怒り出したり、ふさぎこんだり、暴言を吐いたり、暴力をふるったり、なにもしゃべらなくなったり。俗に「地雷を踏んだ」という言い方がありますが、どこかで相手の地雷を踏んだのか。その地雷がどこにどうあるのか普通のつきあいの常識からは分からない。ある程度、ああいう言い方をしたのが気に障ったのか、調子に乗って冗談が過ぎたのか、意地悪なことを言ってしまったのかなどと反省しますが、そんなことでここまで・・・という気もする。その突然と感じられるブラック・アウト、なんて嫌なことを言い出すんだ・・というような人格の変わったような変貌、ぞっとするような荒廃したむき出しの極端な感情の爆発。そして自分自身も、自分を許したいからごまかしているけど、同じような変貌をちらちらと露出しているはずだという自分の裏を見せられるような嫌な感じ。あなただってきっとどこかで経験しているはずのこういう落とし穴について私はそれはなんなのかを切実に知りたいわけです。
「母型論」の記述のなかにこうした疑問に答えるものを求めると、まずはこうした事態は無意識の露出であろうとみなすことだと思います。そこで今回は「母型論」における意識と無意識のモデルについて解説したいと思います。吉本の概念である「大洋」の世界は無意識しかない世界と考えられます。そこには現実はまだない。言葉がない世界だからです。無意識の世界の始まりは無意識の核を形づくる。無意識の核は胎児期から形成されると考えます。無意識における核の領域が作られる時期は受胎8か月から出生後1年位の間とみなします。つまり胎乳児期です。
なぜ受胎8か月から無意識の核の領域が形成されるかというと、その時期が胎児の意識(無意識)の芽生えであり、レム睡眠の状態で母と子とのきずなが完成されると考えられているからです。ならばそれ以前の受胎から8か月の間にはこころの世界は無いのか。三木成夫が世界的な業績として発見した人間の胎児は胎内に置いて、地球での生命の誕生からにんげんへの進化までの膨大な生命の歴史を辿る、その一環として水棲生物から陸上生物への転換(上陸と呼ぶ)を受胎後36日目に行う、というような物凄い事態のなかにほんとうは何があるのか、それはまだ誰も分からないんだと思います。無意識の核の領域のその以前、という問題はおそろしく興味深いテーマですが解く手がかりがありません。
そして出産という胎児にとっての驚天動地の事態が起こります。この出産という事態が胎児の無意識にとってなんなのか。ウィルヘルム・ライヒの見解として吉本が述べていることによれば、出生、つまり胎児から乳児への環界の切り換えは、それだけで女性の役90パーセント、男性の70〜80パーセントをマス神経症にかからせるほどの負荷を強いる、ということだそうです。吉本は別の観点から出産という事態を考えています。胎児はエラ呼吸的、内コミュニケーションによって母と親和し、栄養の内摂取の状態から出産によって急激に外コミュニケーションの状態に転換されるため、否定的な衝撃に充たされる。この状態をエリザベス・キューブラー・ロスという人の「死の瞬間」という著作に沿って、つまり出生の否定的な衝撃を死に面するのと同じ型のこころの状態と仮定して考えています。胎児から乳児に転換させられた時、乳児の無意識にはその不安な怖ろしい外界に突然生まれたことへの憤りや悔いの状態がやってくると考えます。まずは嫌だ、怖い、帰りたいという恐怖と動揺がある。ロスの死に面するひとの段階として最初に設定した「否認」と「怒り」の段階です。そして次に来るのはロスのいう「取引」です。〈もう一度母親との親和の接触を与えてくれたら、生まれた状態を肯定してもいい〉という取引です。この後にロスのいう「抑うつ」があります。生まれたことのながい(一年にもおよぶ)抑鬱の状態の予感、と吉本は述べています。そしてロスの「諦め」と「受容」の段階がきます。胎内から外界へ生まれたことを(いたしかたない)と諦め、受け入れるということです。つまりは生まれるということは怖ろしいことであり、それは根源的な無意識の核に「NO」を形成する。生まれたくなかった、外へ出されたくなかった、「母」なるものと一体になっていたかったしそこに根源の安心があったのに無理やり生まれてしまったという否定と怒りがあるのだということでしょう。いいも悪いもないんで、こうした根源の核のこころを「イノセンス」と呼んでもいいわけですが、それがにんげんの普遍的な核にあると吉本はいいたいと思います。
その「NO!」という無意識の核にある怒り、恐怖、動揺、悲鳴。言葉の無い誰も知らない死のようなところにあるNOです。宇宙的な恐怖のようなNO。それをいかに緩和するか。それもまた好き嫌いに関わらず、普遍的ににんげんの核にある母と子の物語なんだと思います。
長くなりすぎるので、おおざっぱに書き進めますが、吉本の述べるところではこの核の領域の次に無意識の中間層が形成されることになります。乳児期の次の幼児期に、無意識が意識の領域に向かって拡がることによって作られる無意識の層です。意識とは言語ですから、言語が発現されるとともに言語にならない前言語的な発現とが葛藤する。その葛藤を通じて形成されるのが無意識の中間層だと述べています。この中間層は「地獄の中間層」と吉本が呼んでいるもので、あらゆる否定的な無意識が渦をまき、牙をむき、炎を立てて煮立っている無意識の領域だとみなしています。この中間層の外側に無意識の表面層が作られる。その形成は幼児期と児童期を通じて形成される。胎乳児期に形成されたものが現実世界と衝突させられることでつくられるのが無意識の表面層だとみなしています。雑な要約ですいません。
言語獲得以前の無意識のドラマが核をつくり、言語の獲得における葛藤が中間層をつくり、言語の獲得によって獲得された現実世界との葛藤が表面層をつくる。無意識とひと口にいってもそこには区分が考えられ、層とみなせるものがある。
ここで忘れちゃったでしょうけども私の個人的な疑問に戻ります。突然の人格の変容、困ったヤツ、嫌なヤツへの変身のようにみえる落とし穴が自他ともにあるとして、それをどうみなすか。それは無意識の外側に(外も内もないけどわかりやすいからね)ある意識世界で、共有できる言語的な規範を前提にしてつきあっている状態から、なにかを契機に無意識が露出したんだと一応考えてみます。しかし、それなら無意識のどの層の露出なのか。表面層の露出なのか、中間層の露出なのか、それとも核の領域つまりは大洋の世界の根源的なNO!の露出なのか。それは問われるということになると思います。
長く書きすぎてすいません。精神的な障害とか、あるいは老人の認知症とか言われていることが、ほんとうはよくわかっていないのに取りあえず分類されているもので、だからその対処とされている薬物とか療法というものも自分でできる限り考えてみないとかなり危なっかしいもんだという実感があるために、つたない考えなのについだらだらと書いてしまいます。どこかにもっとアタマのいい人がいて、明快にさっさと教えてくれないかと思ったりもしますが、そういう人を当てにしないというのが吉本隆明に教わった自立ということです。だからダメモトで自分で考えていこうと思う次第です。なぜなら私の考えにだけ私の人生のすべてが込められていて、それはいかに優秀な他人でも当てにしようがないからです。