空虚な精神はその根源を生理のうへに持つ。だが、それにもかかはらず、精神はその空虚の否定を精神によつて行はねばならないだらう。(原理の照明)

名探偵モンク」という海外のテレビドラマを知っていますか。これは強迫神経症を病んでいる元刑事が探偵となって難事件を解決するドラマです。それから「幼獣マメシバ」とその続編の「マメシバ一郎」という日本のテレビドラマを知ってますか。これはひきこもりで無職の中年のニートである主人公の男が犬のマメシバと出会ってしだいにひきこもりから脱していくドラマです。どちらもたいへん出来のいいドラマで、脚本も演出も役者も優秀です。レンタルビデオ屋に行けばたぶんあるからだまされたと思って見てごらんなさいよ。だまされたりして(*´ー`)
こうした日米の優れたドラマを見ると吉本の予言した時代、エディプスが引き起こす神経症ではなくシステムが引き起こす神経症へ転換していく過渡期の時代、したがって大衆的に神経症、神経障害が蔓延する、むしろ神経症や神経障害というものを根底から見直すことを強いられる時代、つまり「おかしいほうがフツウじゃん」の時代がやってきたのを感じます。身体と、精神の初源であるエロスとの一体となった胎乳児期の始まりのうえに、心の病といわれるものの発生がある。にもかかわらず、やっぱり胎乳児期に戻りようがないし、いまの成人の意識を駆使して大洋の謎に挑むしかない。吉本さんがやがてこの世界から旅立ってしまっても、自分のできの悪いアタマと中年の体を使ってやるだけやってみるしかない。まあそれでいいじゃないか。たたかえるだけ幸せだ。

おまけです。
吉本隆明2時間インタビュー」より    「週刊新潮」2012年新年特大号

しかし、それでも考えを変えなかったのは、いつも「元個人(げんこじん)」に立ち返って考えていたからです。
元個人とは私なりの言い方なんですが、個人の生き方の本質、本性という意味。社会的にどうかとか政治的な立場など一切関係ない。生まれや育ちの全部から得た自分の総合的な考え方を、自分にとって本当だとする以外にない。そう思ったとき反原発は間違いだと気がついた。
「世間で通用している考えがやっぱり正しいんじゃないか」という動揺を防ぐには、元個人に立ち返って考えてみることです。そして、そこに行きつくまでは、僕は力の限り、能力の限り、自分の考えはこうだということを書くし、述べるだろうと思うんです。