ぼくが感ずるのはいつも遠くからの信号だ。ぼくには視力がない。聴力がある。(〈寂寥についての註〉)

最近、園子温(そのしおん)という監督の作った「冷たい熱帯魚」というDVDを見て素晴らしいなと思いました。ネタバレということに多少なりますが、私が惹きつけられたのは自我感情というものが委縮して弱々しいにんげんというものがいて、そいつが豹変する過程を見事に描いているというところでした。大洋期から児童期にかけて母子、あるいは父子の関係で形成される自我と呼ばれるもの。それが抑圧され委縮して内向しているにんげん。それがさらにどう猛に抑圧され、追い詰められたらどうなるのか。それは無意識が露出するのだと思います。そして極度に追い詰められたら豹変する。それは抑圧した者を自我のなかに取り入れるという形で豹変することが考えられます。消えそうな自我を捨てて、自我を消そうとする強力な抑圧者に憑くようなこころの世界です。
まあそういうことをこの初期ノートに結び付ければ、えーと視力がなくて聴力があるというのは言葉のことを言っているのだと思います。映画は視力つまり映像が大きな要素ですが、本当に映画作品を決定づけているのはセリフ、つまり言葉なのだと思います。映像が優れている場合もその映像を成り立たせている発語されない言語というものがあります。それを聴くのだということだということで、まあ勘弁していただいて。

おまけです。

「母型論」のあとがきより             吉本隆明
明瞭な問題意識はあるのだが、模索の悪戦のためうけた銃弾で穴だらけの不完全なものになっている。だが数年来、柄にもなく世間態を表芸に啓蒙的な時評文を書いていた期間に、こつこつやったわたしの本格的な文章だといえる。遅々とした歩みで、すこしも自慢にならないのだが、わたしの体系的な考えをすこしだけ発展させることができているとおもう。