僕らは離脱しようと欲するけれど、決して離脱することは出来ない。唯それは内的な限界を拡大し、多様にするだけである。(断想Ⅱ)

これは何から離脱しようと欲しているのか、この文章からは分かりませんが、この前の断章を読むと「決定的な宿命」なるものからの離脱ということだと分かります。決定的だから宿命なわけですが、この宿命が何を指しているのかは明瞭ではありません。ただ吉本がここでいいたいことは現実の構造であれ、性格的な根底であれ、宿命的に動かしがたいものから自由になりたいと欲しても逃げ切ることはできない。しかし自由であろうとする意志の軌跡が、つまり考えたりやってみたりして結局は離脱できないとしても、その軌跡が内的な限界を拡大し多様にするということです。それはつまり観念があるいは思想が、また行為がにんげんの宿命に対して何度もぶつかり、そのことで宿命の構造を解明し宿命を包括できる規模を獲得しようとしていくということだと思います。現実はそう簡単に変わることはないけれども、知ろうとすることで宿命的なるものは次第に姿をあらわす。それはいつかは宿命を乗り越えようというにんげんの果てしないたたかいの成果です。
いい前振りができましたので、今回もまた「母型論」のほうへこっそり入っていきたいと思います。「母型論」の母型という概念は多様に使われています。それは心の母型という意味もありますし、言語の母型という意味もあります。また歴史の母型、人類の母型という意味もあります。いずれにしても父型ではなく母型です。母と幼子の出産・生誕を核に置いてあらゆる初源的な概念を洗いなおしてみようという吉本の、離脱はできないけれども内的な限界を拡大し多様にしてきた成果といえます。うまくつながってる( ̄ー ̄)
母型論の論理は出産・生誕に前後する胎乳児のこころ、言語のまだ無い子と母との「内コミュニケーション」だけが存在し、そしてすべてが無意識であるがゆえに胎乳児も知ることができないし、忘れてしまうし、母も察することができない「誰も知らない」こころから出発します。そしてそのこころを「大洋」という概念で呼び、その大洋が言語を獲得する過程を解明しようとしています。人類という普遍性で考えて、胎乳児が幼児となり言語を覚え始めるその初源にあるものは母音であると吉本は考えます。「母型」という概念はこの母音という意味も含んでいるわけです。そして言語を獲得する過程を、性としてのにんげんという観点から考察します。にんげんを突き動かす性の欲動というものが言語を獲得する過程でにんげんをどう変えるか。それは性の欲動というものが身体としての男女の差というものを越えて男性的な能動的なものであるという面と、乳児にとって男女の性差を越えて、母親が女性でありながら男性的な性と食とを与えるものとしての能動性であり、乳児のほうは性差を越えて女性的に受け身で食と性を受ける存在であるという面と、男児にとって母親は異性であり、女児にとっては同性であるという面との複雑なあり様がどう展開されるかを「誰も知らない」世界に対して論理と想像力で挑むことです。
吉本の想定によれば幼児が言葉を覚えていく過程が男女の分化に大きな意味をもつということになります。だから言語を覚えていくという段階が母型論にとって重要な展開になっていくわけですが、もう少し言語以前というところに立ち止まって考えてみたいと思います。まあゆっくりやりましょう。
誰も知らない大洋のあり様を推測させてくれるものの一つは精神病者と医者に呼ばれることになった人たちだと思います。精神病者は健常者と呼ばれる人たちが押し隠くすことになんとか成功している大洋期のあり様を露出してしまっているからです。精神を病んでいるといわれる人たちは実際につきあってみると、実にめんどくさくやっかいで嫌な思いもいっぱいさせてくれる人たちであると同時に、なんとも不思議に惹きつけるものを持っています。それは誰もがそこから出発し、忘れ去り、時々露出しかかるもののなんとか折り合いをつけている大洋の存在を、(ありえない)とため息がでるほど露出し、離脱しようもなく振り回され押しつぶされている人たちだからだと思います。医者としてつきあうのではなく、人としてつきあうとそんな気持ちになります。にんげんの心のもっと拡大し多様化した普遍性のなかにすべてを置きなおして考えることはできないかと切実に感じるのはそんな一対一のつきあい、の離脱しようのないどん底に座り込むときです。
母が「心の腰がひけた」状態であったり、あるいは忙しすぎたり心配事が深刻であったり、夫である父親との性的な関係が壊れていたりしたら「大洋」はどうなるのか。それは乳児にとって宇宙であるような母が失われる状態です。それは膨大な恐怖であると思います。そして母子は「内コミュニケーション」の状態にある。「内コミュニケーション」の状態とは言葉が無く、母の無意識も含めたこころが、子のこころに流れ込む状態です。擦り込まれるといってもいい。しかし単に擦り込まれるということとは違うのではないかと吉本は考えます。母親の喜怒哀楽というものや無意識の快楽や嫌悪や恐怖がそのまま擦り込まれる面と、二律背反や複合として、母の喜びや安堵が子の嫌悪や不安として移しこまれる面もあるはずです。その最大の場面は出産です。出産は母にとって安堵であり喜びであるかもしれませんが、新生児にとって胎内環境からの激変であり、恐怖と動揺で泣き叫ぶ状態です。出産後もこうした母と子の母子一体とはいえない「内コミュニケーション」の面は存在するはずです。こうした一体の面と背反した面とはそのまま大洋の深海と波の表面のあり様を作り出していきます。
ここで吉本は興味深い観点を提出しています。食と性とが同致している授乳期に母が子に対して拒否的であるとその拒否的なこころはそのまま子に転写される。しかしその拒否的な時期が長かった時には、子は言葉の無い誰も知らない無意識の大洋のなかで母からの感情の流れを自分で作り出すというのです。それは性の欲動を食とともに流し込まれ生命の根源のエロスを与えてもらうという生きるすべてのようなものが長く途絶えてしまった子の恐怖の生み出す「救済」なのだと思います。そしてそれは誰も知らないのだ。
吉本の考えによれば、この子の作り出す母からの架空の感情の流れというものが、精神病者の妄想や幻聴の根源だということになります。たとえば妄想の典型である被害妄想では、たえず付きまとい監視している加害者は、実は大洋期に子が自ら作り出した「母の感情の流れ」の代理者であるということになります。精神病者は自らの大洋期に作り出した「母からの感情の流れ」という架空の流線の向こう側に、かって親和したもの家族や恋人、あるいはそれ以外の偶然に自分が親和した人物の表情、素振りから感情を自分に流し込む加害者を自分で作り上げているとみなしているわけです。そしてそれは精神病者自身もその深層は知らない。知らないし知りようもないから、自分が作り出しているにもかかわらず自分の外側に存在するかのように「感情の流れ」は存在する。人生のなかで追い詰められ、孤立を感じ、エロスに餓え渇き、無力感に苛まれる時に誰も知らない大洋のなかでかって同じように生きることの恐怖を感じた時に行った「母からの感情の流れ」の仮構を作り出す。
こうしたことが精神病者と健常者という正常と異常の区分ではなくその根底でのにんげんの普遍性として成り立つとすれば、こうした「母からの感情の流れ」の仮構という大洋のあり様は健常者と自らをみなしている人たちにも多かれ少なかれあるんじゃないでしょうか。人は性の欲動を少なくとも人との一対一の関係においては根底に抱いて生きる。その関係のなかには真のエロスの流れを受け取ったり与えたりという関係ももちろんある。しかし仮構されたエロスの流れを真偽もわからずに信じてしまうことも多かれ少なかれあるとしたら。本当に人とつきあい、いろんなことを互いに経験して心臓に刻まれ、記憶に焼きつくようなエロスの関係が起こる以前に先入観、思い込みによる仮構された愛憎にすぎないものを人との関係と思って生きているのかもしれません。人生が、つまりエロスとしての人生が始まる以前に3Dのような仮構された人生を人生と思っているにすぎないかもしれません。つまりリア充(リアルが充実してない)してないわけだよな。おそらくこの「母からの感情の流れ」の仮構ということを想定にいれないと、宗教的なものも解けないんじゃないかと思います。