僕は唯欲するがままに為すにすぎないけれど、欲するがままといふことは次第に一つの目的を形成するに至り、それは同時に苦痛をも伴ふに至る。即ち一つの労働に転化される。労働の感じを伴はないものは天才の作品を除いては決して存在しない。(断想Ⅱ)

労働の感じというのは、表現においては日常性が表現に込められていく過程です。では天才はなぜ労働の感じを伴わないのか。それは日常が始まる以前の源泉から表現を行いうるからじゃないかと思います。誰も知らない大洋というものを推察させてくれる存在はひとつは精神病者ですが、表現者もすぐれた作品で大洋の推察を助けます。そのひとつのあり様は恐怖の表現だと思います。つまりホラーです。優れたホラーは天才の所業です。スティーブン・キングというホラーの帝王と呼ばれる作家がいます。彼の特に初期の作品には労働の感じの伴わない恐ろしさが描かれたいます。私は「霧」というのが一番凄いと思います。それはお化けや人殺しが出てきてギャーというのではなく、もっと畏怖というような宇宙的な恐怖です。その根源は大洋のなかで母の失われた空間の恐怖じゃないかと思う。映画の「ネスト」(「霧」の映画化)はダメですよ。あれじゃただの地上的な恐怖になってしまう。それをキングは絶賛してるんだからな。ちぇ、あのおっさんは自分の真価を知らないよΨ(・O・)Ψ


おまけ
「母型論」より            吉本隆明

母の形式は子どもの運命を決めてしまう。この概念は存在するときは不在というもの、たぶん死にとても似たものだ。