下町は亡霊が蘇つたやうに、昔のままになつてゐた。老舗は元のままの位置に新しい営みをはじめてゐたし、ミリカの母はそこにゐたのだから。ただオト先生の家だけがそこになかつた。

これはいきなり読めば吉本さん突然何をゆっての?という感じだと思います。吉本は「エリアンの手記と詩」という長編詩を初期に書いています。この初期ノートの断片はその長編詩の設定をもとに書かれています。エリアンの長編詩は私小説みたいなもので、エリアンというのが吉本自身をモデルにしたキャラクターです。オト先生というのはたぶん吉本が少年期に通った私塾の先生の今氏乙冶とか、大学時代の師である数学者の遠山啓とかがモデルになっているんだと思います。ミリカが誰かは分かりませんが吉本の恋した女性なんでしょう。この長編詩は吉本の最初で最後のフィクションでありかつ私小説的な詩です。この長編詩が模倣しているのはリルケの「マルテの手記」なんかじゃないかと思います。吉本も小林秀雄のように小説的なものを書いた時期があった。しかしなにかを思い知ったんでしょう。それは才能のあるなしではない。どうしようもない自己資質に突き当たったんだと思います。吉本は批評家であるしかない深い資質を持っていました。小林秀雄と同様に。
このノートの部分だけでは分かりませんが、「エリアンの手記と詩」を読むと分かることがあります。それは一口にいえば「暗さ」です。恋愛の話なんだけど、いいようもなく暗い。暗いものを模倣したから暗いのではなく、幼いとか自信がないから告白できないでウジウジしているといったたぐいから来る暗さでない。もっと掘り下げた性格の底のほうからやってくるエロスの暗さなんです。まあそこはアナタがお金を出して「エリアンの手記と詩」を買って読んでもらうとして、私としてはサクサクと「母型論」のほうへ話を進めたいと思います。
こうした「暗さ」とは本質的に何か。その問題を「母型論」が提起している「大洋期」のなかに探ってみたいと思います。「大洋」とは胎児期に形成され、乳幼児期を経て言語を習得する段階までの胎乳幼児の心を指す概念です。それは言語のない世界です。言葉を知らない胎児や赤ん坊の世界。それが「大洋」です。言葉のない幼子の心の、言語という枠や倫理のない広がり、波立ち、恐怖、歓喜、驚異、集中、苦痛などが海の深部の動きとと表面の波とを作り出すイメージなんだと思います。しかしその世界を解こうとすることは言語を駆使して述べることです。ここに大きな矛盾があります。言語のない世界を言語を使って解明することは可能だろうか。しかし「大洋」の世界はやがて幼児期に至って言語を習得します。ただし言語の世界が登場して「大洋」の世界が消えるわけではない。それはフロイトのいう「無意識」として言語的な意識の世界の奥に埋められ、生涯にわたって生き続けるのだと思います。
「大洋」期とはだから言語以前の無意識しかない世界だといえます。それは言語習得以降のにんげんが意識としては忘れてしまった世界。その世界に「大洋」を包む「宇宙」のように存在する母親も伺い知ることができないし、幼子も言語がないから捉えかえしようのない「誰も知らない」世界だと吉本が述べています。「大洋」の世界は母も子も知らない、だから誰も知らない世界です。「誰も知らない」世界はどのように接近できるか。
吉本の提起した「大洋」の問題は、世界そのもののように多様な問題を含んでいます。ただ私が勝手に書かせてもらっているこの解説では、私のやりたいように、また私にはそんなやり方しかできないわけですから私なりにぽつぽつ考えていこうと思います。だいたいこういう根源的な問題に出会えること自体が幸せですから、どっかりあぐらをかいて倦まずたゆまず自分のペースで取り組んでいけばいいんじゃないでしょうか。
さてこの「大洋」の世界は母と幼子の交流の世界です。そしておっぱいを吸うという「食」と、おっぱいを触り吸うということのうちにこもる「性」とが同致するにんげんの初源の世界です。この同致があるがゆえに「性」のエネルギーは身体の各部に浸透し「エロス覚」というべき「感じるところ」を作り出すと吉本は考えていると私は思います。おっぱいが与える母乳は生きることの糧である「食」です。その「食」がなければそりゃあ死んでしまう。しかし「食」だけではひとは生きることができない。あるいは生きても心は死んでしまう。心はなにを栄養として生きるのか。それは「母」から授乳とか排泄の世話とか寝かしつけるとか抱きしめるとかあやすとかをされながら、徹底的に受け身で、つまり男女を問わず「女性」的に浴びるものが心を生かすのだと考えます。
その母から流し込まれる「心的な母乳」のようなものを、エロスと呼んでもリビドーと呼んでもいいでしょうが、要は言葉で言いようがないものをあえて言葉で言おうとしている、かなり無理をしているのだという自覚だけは保留しておく必要があると思います。「なんだか分かんないけど、なんかわかるような気がする」という直覚だけを頼りにもう少し考えてみます。この母から流れてくるエロスの流れが充分だったらひとはどうなるのか。また充分でなく途絶えたり、間歇的であったり、干からびていたらひとはどうなるのか。「食」があれば生き延びて幼児となり言葉を覚え少年少女となり成人となる。見た目はそれでいいかもしれない。しかし「心
はどうなるのか、ということです。
「母」と「幼子」のあいだの「誰も知らない」失われたロストワールドがある。このロストワールドで母親が乳児にたっぷりとした「心の母乳
を与えられない事態とは何か。吉本はひとつの例をあげている。

  子どもが、じぶんをやさしい母親だとみなしていると感じると、それに対応できず母親の方が「不安」や「腰がひけ」た状態になる。そうでないときは、やさしい母親を演技し(作為し)、子どもにもそうであることを認めるよう強要する。すこしニュアンスをかえれば、子どもと親和する場面になるとパニックに陥って不安や強迫を感じてしまう母親。
                          「母型論」より  吉本隆明
この「心の腰がひけた状態」というのがピンとくるように分かるか分からないか。とはいえ「分かった」ということは別に自慢できることじゃなくてザンネンな不幸なことです。分からないほうが幸せだ。しかしこの「心の腰がひける」という指摘は重要だと思います。それは公的な生活、会社だの役所だのでは表にでないけど、私的な一対一の、見つめあうような心情や愛情が問われる関係でおおきな意味をもつ。相手の無垢なあけっぴろげな愛情に接して、不意にエアポケットに入ったような「不安」が巻き起こる。「あ」という落とし穴のような感覚。いま生まれようとしている愛とエロスの空間に対処できない。苦手。苦痛。逃げ出したい。無理(°_°;)そういうパニック。それが「心の腰がひけた」状態です。
それは「母」と「幼子」の「大洋期」の「誰も知らない」世界に根源のある根深い状態なんだと思います。それがどれだけひとを苦しめるか。どれだけひとの人生をゆがめるか。そのパニックは誰にも言えないし、誰にも知られない。その怖さゆえにひととひととの一対一の関係を避けて、公の世界だけに生きたり、知や文化の世界だけに生きたりすることもあるんだと思います。そのびみょうなにんげんの秘密に迫らないとひとに関わる仕事はできないんじゃないすか(>_<)
まあ今日はこんなところで。あとは明日のココロだ〜(BY小沢昭一