独りの少女がゐて……、独りの少女がゐて窓辺に近くピヤノを打つてゐる。ああそれはづつと昔、僕がどこかで視たやうな記憶がある。現在、独りの少女は低脳な唯物論にふけつてゐた。靴のかかとを三分高くする方法についての……。(風の章)

この古臭い、そして女性に対するコンプレックスが露出している部分は吉本自身が公開するには恥ずかしいものだったと思います。「窓辺でピヤノを打つ少女(#^_^#)
 私は吉本が育った月島の町を知ってるけど、あんなど下町にそんなお嬢様なんかいないっての。靴のかかとを高くすることに夢中な少女ね。それをなにも「低能な唯物論」とまで言わなくても・・・
しかしとにかく吉本にも女性に対する関心と憧れと嫌悪が人並みにあることがわかります。吉本は「あなたが自分がスケベだと思うのはどういう時ですか?」といった質問に「ベランダに女性の下着なんかが干してあるとチラッと見ずにはいられない」という窃視症的な性癖を告白しています。こういう正直さがこの大思想家の凄くいいとこだ。だってアナタもワタシも性の欲望に振り回され、そして密かに性的な倒錯を抱えてばれるのを恐れおののき、性的な欲望が衰えたら衰えたでうろたえ悩みとかして生きてきたでしょう?そうに決まってるんだよ!( ̄ー+ ̄)
金欲と性欲こそは上品ぶった世界の知識人や政治支配層がひた隠しにしてきたにんげんの深層の真実だ。いまの激動の世界情勢にあって、やがて崩れ落ちるアメリカとヨーロッパを超えて世界覇権を握るのは中国やロシアやブラジルやインドのような国々なんだと思いますが、それらの国に巻き起こる新しい文化はきっと金銭欲と性欲というあからさまな欲望に偽善的な抑圧を加えないものになるような気がします。いわば正直で下品な文化が開花するのではないでしょうか。正直で下品ということはつまりにんげんが本格的ににんげんそのものをまな板の上に置いて文化を作るということです。
「初期ノート
は普通の青年の手記に比べて極端に女性に対する記述が少ない。あの娘が好きだ〜とか、振られて悲しい〜とか、そんなことを書き連ねるのが普通なのに難しい哲学的なことばっか書いてあるのが「初期ノート
です。といっても吉本に女性に対する関心や欲望がないわけではない。平気で女を買いに行ったりする面もあると後輩の奥野健男(文芸批評家)も書いています。吉本の性格のベースは彼の父親がそうであるように下町の職人さんですから、山の手のお坊ちゃまの知識人たちとは根が違います。矢沢栄吉のように根っこは下町の下品なあんちゃんのくせに、「ビールの泡がちがうねぇ⊂(^^ )」みたいなCMに出ている「成り上がり」とは違うんで、自分の出所を隠さず根性を変えずに押し通しています。それが思想の生地になっている。そこが俺は好きですね。
では男にとって女とは何か。これがわかんなくて男は生涯苦しむわけです。オンナっていう魅力的であり、眼を惹きつけ鼻を惹きつけ、かつややこしく怖ろしくめんどくさい存在はいったいなんなんだ(_ _ ??)/ というわけで吉本の「母型論」にその追及を探してみます。まず胎児が乳児になって幼児になる。そして言語を覚えます。すると言語を覚える前は前言語期です。この前言語期を「大洋」という概念で「母型論」は呼ぶわけです。「大洋」とは言語のない胎乳幼児のココロです。それはフロイトの概念で無意識と呼んでもいい。しかし吉本があえて「大洋」と呼びたいのは、そこに吉本の込めた新しい意味付けがあるからです。「大洋」に縦波と横波としてあるのは体壁系の感覚作用と内臓系の動き(特に心臓の動き)の複合だと考えます。
そして「大洋」は母親と子との密着した関係から作り出される。母親が胎内の子に与えるのはへその緒を通じた栄養であり、乳児に与えるのは乳房を通した母乳です。これが食事であり命を育むものだ。しかしそれだけでにんげんを考えると片手落ちです。
片手落ちでなくするためには性としてのにんげんを考えなくてはならない。目に見える胎乳幼児の母子関係は「食」の相であるけれども、目に見えない「性」の相が存在するはずです。フロイトが「リビドー」と呼んだ根源的な性的エネルギーは、胎内において母親から胎児に与えられると考えます。これをフロイトは「新生の胎児は(性の激情の萌芽)を母親の胎内からもってくる」と述べているそうです。そこで吉本はこの「性の相」と「食の相」という三木成夫が指摘している生物の根源が同値している初源のにんげんのあり方を乳児の授乳期のなかに求めます。乳児は口で乳房を吸う。この時母親は女性でありながら男性的であり、乳児は男女ともに受け身の女性的な存在になっている。乳房を口に押し込み、それを乳児がむさぼり、また乳房を触りもんだりつかんだりする行為は、男性器が女性器に挿入されたり性的な愛撫を行う行為の起源になっている。つまり性的な初源の行為と食の起源の行為が授乳という母子関係のなかに同値してあらわれる。
この性と食が一体化している時期があるために、にんげんの「大洋」を形作る体壁系と内臓系の身体の各所に「エロス覚」と呼ぶべき性の感覚個所が生じると吉本はみなしています。要するに「感じるところ」が生まれるわけでそれが「エロス覚」です。エロス覚は乳児における性と食が一致するおっぱいを吸う行為が起源だということです。
この性と食の一致の起源とエロス覚の発生ということが「母型論」の出発にあたります。もちろん遡って胎児期の問題があるわけですが、とりあえず出生以後の問題の出発がここにあるわけです。ここから「母型論」は展開されますが、一つの展開の道は性的な倒錯と精神障害の問題をどう解くかということです。もう一つは前言語の状態である「大洋」というものが言語に出会うことで何が生じるかを解くことです。吉本は男女の性差がこの言語との出会いという段階とともに生じると考えます。さらにこうしたにんげんの無意識と意識、前言語と言語、身体と精神という問題を解くことを、人類史の起源と未来を解くことにどうリンクさせるかということです。
おそらく吉本は精神病という医学の与えた概念を解体し、にんげんの本質のなかに性的な倒錯や精神病と呼ばれるものを位置づけ直したいのだと思う。また「大洋」が言語に出会う課題のなかで人間の男女の性差の問題を解くとともに、日本語の起源と歴史の問題も解こうとしていると思います。またさらに拡張して人類史における「アフリカ的段階」と「超資本主義段階」のリンケージする見取り図を描こうとしているし、描いてきたんだと思います。
これだけ面白い「母型論」をまだお金を出して買っていないそこのアンタ。アンタなんかAKB48のじゃんけん大会の最下位の娘より浮かばれない人生を送るでしょうネ!