己れの生涯を忠実に生きぬかないものは、人類の現代史を生きぬくことは出来ない。これは明瞭なことだ。そして現在の僕は何もわからなくなつてゐる。(風の章)

むかしむかしの60年安保闘争の後で、分厚い「安保闘争史」といった書物を書いた学者がいた。吉本の言い分では自分を賭けもせず闘争をやり過ごしておいて、メディアの記事だけ寄せ集めて闘争史なんて書くバカの気がしれないというものだった。他人の戦いを客観めかして評論して印税を稼ぐ。落ち武者狩りとおんなじだ。今でもインターネットにいっぱいいる、他人の戦いをけなして喜ぶクソ野郎たちとおんなじだ。私が吉本を好きなのはこうした下町の職人さんがもっているような倫理、道理というものを捨てていないとこなんだと思います。


おまけです
「母型論」のなかの「異常論」より         吉本隆明

たとえば窃視症と露出症は、眼の知覚作用に共時的に重なった眼の器官にまつわるエロス覚が過剰に不均質に充当されたものとみることができる。またサディズムマゾヒズムは、体壁系に属する皮膚の通圧感覚が、エロスとして過当な備給をうけたものとみなせることになる。これは内臓系についてもいえる。たとえば広義のヒステリー症を思いうかべてみれば、口(腔)や肛門のような鰓腸の上下の開口部にたいして性的な器官の役割を過剰に背負わせる傾向が、ある閾値を越えたばあいにおこるとかんがえることができる。もっとこの言い方をおしすすめれば愛と憎しみの情念や、他者への親和と敵意の感情は、内臓系とくに心臓の高まりから生れる心の動きに、対象にむかってゆく性の欲動が重なった形とみることができよう。