人はしばしば模倣の上に乗つて、かの青春期を出発致します。そして何日か自分が見知らぬ地点で、視むきもされないで置き去りにされるのを発見するのです。そのときこそ、真にある物を理解するとは、その物を原点からはじめることであるのを知るでせう。敢くて彼は、独りして、貧弱な自分から出発し直すのです。僕にはそれが一九四九年中頃に始まりました。(原理の照明)

ここに書かれていることは吉本が敗戦という体験を経て、戦中に自分が形成した日本と世界の社会観を組み替えていかなくてはならないと感じた時に、もはや頼るべき思想がこの世界のどこかに用意されていると期待することはやめようと考えたということだと思います。当時の提唱された思想のどれにも心から納得することはできなかった。それらはそれぞれ優秀であったとしても、自分が体験した経験を底のところから掬い取るものとは思えなかった。だったら自分で自分の底を浚いとる思想を作るしかない。そう思い決めたときに、吉本の自前のものとしてあるのは貧弱な現実と貧弱な自己でしかなかった。でもこの貧弱さから出発しようと考える。そこが吉本と他の多くのどこかに頼る思想を親分として奉っている思想の子分どもとの違いだと思います。
自分の現実から始めるという思想を徹底すると、自分というものを胎児期から考え直すという思想の課題が登場します。それは人類にとって胎児期、乳児期、幼児期、児童期といったものは何を意味するかという普遍性を自分の底を浚えるように自分で考え直すことを必要とします。吉本は晩年になってこの課題に挑戦しています。「母型論」はその成果です。
「母型論」は吉本が発生学者の三木成夫の業績に出会い、吉本が蓄積した言語論や幻想論を三木の業績に連結して胎児期からの人間の心身論を切り開こうとしたものです。ぜひあなたも買って読んでみてください。本屋になくてもインターネットなら買えるでしょう。さあ買いましょう。
「母型論」は私にはよくわからないところがいろいろある本なので正直いって解説なんてできる柄じゃないです。お手上げなわけです。しかし私に分かるというか、私が関心をもったところをつまみ食いして書いてみることにします。あとはあなたにタッチしますから、あなたが読み解いてください。
「母型論」の特徴はひとつにはフロイトがリビドーという概念で提起したものと、三木成夫の発生学を土台にして身体各部に点在するエロス覚という概念を吉本が新たに作ったことにあると思います。
またヨーロッパの思想にある、精神の根底に父親とのエディプスの葛藤を置く、あるいは神という父性的な超越性を置くという思想の傾向に対して、母という存在を根底に置いて言語以前の人間の精神を考察しようとしていることだと思います。そしてこの背景には子育ての文化的な違いという問題が控えています。その両端をあげると日本では誰もが思い当たるような母親と乳児との密着した子育ての仕方であり、一方の端には乳児期の割礼という西欧の伝統があると考えます。
さらに吉本のモチーフを私なりに考えると、乳幼児期ににんげんを突き動かす性の力、リビドーを抑圧するものとして母親との関係、父親の存在の仕方、現実の力、教育の威力というものがある。しかしもしにんげんが自らのリビドーというものを肯定し、抑圧することをやめたらにんげんというものはどのようでありうるのかということがあるのではないかと思います。それは単なるセックスの解放というようなことではなく、胎児期からのにんげんの心身のあり方の解明を前提にするものです。
それは精神病といわれている概念を組み替えて、胎児期からの人類の心身の普遍性のなかに精神病といわれている状態を置きなおすことでもあります。
そのためには幼児が言語を覚える以前の状態に論理を与えなくてはならないわけです。「母型論」では母親と子の胎児期から始まる言語以前のコミュニケーションを「内コミュニケーション」という概念で提起しています。内コミュニケーションは言葉のない世界での母子の「察知」の関係です。この察知の領域がにんげんのなかにあり、胎児から幼児まではコミュニケーションのすべてであり、また精神病と呼ばれる症状の起源もこの内コミュニケーションの段階にあると考えるわけです。
乳児期の母子というものをどう考えるかということで吉本が述べているのは男女の差を問わず乳児は受動的であるゆえに女性であり、母親は女性でありながら男性であるということです。するとその後に乳児は普遍的に女性である状態から性差によって男性と女性に分化します。この問題は言語以前の内コミュニケーションがすべての状態が言語に出会う時期と不可分だと吉本は考えています。ここが私にはよくわからない。しかし重要なのは言語の習得の前段に当たる時期、つまり内コミュニケーションの時期を「大洋」という概念を創設して呼んでいることです。大洋とはつまり波がうねる大きな海です。そのイメージを言語以前の乳幼児の状態に当てはめています。言葉のないこころ、母親が個人としての母親ではなく世界のすべてであり、乳房がおおきな存在であり、それを吸ったりしゃぶったりつかんだりすることが大きなことであるようなこころの大きな海原というものをイメージします。その言語以前の海原が言語に近づくときに、最初に訪れるのは母音です。あーとか、おーとか、そういうシンプルな初源的な喉と口を使って発音できる音声です。そして音であり言葉のはじまりでもあります。
さらに角田忠信という学者の業績によれば日本人とポリネシア人だけが母音を左脳優位の状態で聴く、つまり母音の音を言語のように聴くと実験によって確定しているからだ。このことを拡張すると旧日本語語族とポリネシア語族だけが自然音、つまり風の音や川の音を言葉のように聴くということになります。ここで問題は複雑さを増します。母音や自然音をどう捉えるかということはそのままでは人類の普遍性にはならないからです。
さらにですが、こうしたにんげんの胎乳児期から言語の習得へと至る時期の解明を、人類史の解明と連結していこうという課題が吉本にあるわけです。それは人類史論としての「アフリカ的段階」というテーマに繋がります。アフリカ的段階の解明という課題は現代の超資本主義段階の社会観へと繋がるわけです。
というようにつまみ食いするだけでもいろいろあるわけですよ「母型論」は。ここまでは囲碁で最初にポンポンと置く碁石みたいなもんで、ここから盤面いっぱいに碁石を敷き詰めていかなければならないわけです。それはこれからぼちぼちやっていきたいです。私は現在介護の仕事をしているわけですが、介護の世界は医療のような身体だけの唯物的な世界ではなく心身相関の世界です。なぜなら病院という閉鎖的な管理的な世界ではなく、日常の延長である世界だからです。そこでは認知症、昔は呆けと呼ばれている症状と精神障害と呼ばれている症状があいまいな基準で混ざり合い、いろいろたいへんな毎日を作り出しています。わたしは一介護職として吉本隆明の全思想の集成である「母型論」の認識を踏まえてにんげんを考えたい。そのほかの提唱されている思想には私の体験の底を浚うものを感じないんですよ。そういった私的な事情もあって私はもっと勉強したいと思う所存であります。