明瞭に言ひ得ることは人間の精神の作用が、その生理に全面的に依存してゐるといふことである。だがこれは少しも精神について解決であることを意味しない。(原理の照明)

それは全面的に依存している、といわなければいいんだと思います。あるいは生理から精神の作用が分離することに論理を与えるしかない。そしてそれはこのノートを書いた後の吉本が自らやりとげてみせていることです。「昨日の我に今日は勝つ」(BY 美空ひばり

おまけです。

「母型論」より             吉本隆明

母の形式は子どもの運命を決めてしまう。この概念は存在するときは不在というもの、たぶん死にとても似たものだ。母親の形式は種族、民族、文明の形式にまでひろげることができる。また子どもの運命は、生と死、生活の様式、地位、性格にまでひろげられ、また形式的な偶然、運命的な偶然の連関とも不関とみなせる。この決めにくい主題が成り立つ場所があるとすれば、ただひとつ、出生に前後する時期の母親と胎乳児とのかかわる場だとみなされる。もっとこまかくいえば、それは受胎八か月から出生後一年くらいのあいだだといえよう。ライヒ(「宇宙・生命・エゴ」)にならっていえば、この時期に作られる胎乳児の無意識は核の領域とみなされる。