僕は決意したいと感じてゐる。若し現実がこのまま発展してゆくならば、僕らは、再び不幸な戦争の渦中に自らを見出すといふことになるだらう。人々は、傷つき易いように忘れやすい。僕は、執拗に且て自らを苦しめたからそれを再びしたくはないのだ。何人も殺し合ひを好むものではない。併し戦争を阻止するといふことは決して、単に殺し合ひを好まないといふ意志によつて行はれるものではない。若しそのやうに軽信するものがあるとすれば、それは歴史といふものに対する無知に外ならないのだ。戦争とは一つの指向性であつて、これを阻止するには、逆に

戦争は、殺し合いはイヤだ、平和が好きだという意思を持つ人が単にたくさんいれば避けられるか。そんなことはないと吉本は言っています。副島隆彦によれば戦争は国家のおこなう一種の公共事業であるということになります。戦争は軍事産業の大量の在庫を一掃することであり、焦土と化した戦地の復興に建設・土建をはじめとする産業の需要を生み出すことである。そして低迷した
景気を戦争景気で吹き飛ばすことである。そして政治的には政府に向ける不満や怒りを敵国に転嫁することでもあるし、征服した国を支配し経済利権を築き資源を獲得し市場を拡大することでもあります。戦争は国家が行うものであり政治経済的な必要に迫られれば国家はこれからも戦争を行うでしょうし、それを多くの大衆が殺し合いを好まない心情を抱いていても阻止することはできない。それは国家が戦争意思をもった時に、一般大衆にそれを阻止する社会的な実力がないからです。戦争意思を持った政府を即時にリコールし、軍隊を大衆の意思でコントロールできる制度がない。その制度を作るために大衆を支える徹底した社会思想がないし、戦争自体を断固として拒否できるだけの哲学がない。
では現在、国家間の戦争を被支配大衆が阻止できる可能性はないのか。可能性はあるというのが吉本の思想であると思います。ここには吉本の全思想の体重がかかっているので簡単に要約するのは難しいですが、決定的なものは大衆の力が高度資本主義社会において潜在的に社会のあらゆる場面で主人公たる実力をつけてきたということにあると思います。高度資本主義社会、つまり先進資本主義社会の段階では生産よりも消費が重要になる。生産はもちろん常に重要ですが、消費というものの重要性が社会を根底から動かす段階になったということです。この段階において一般大衆が自らの行う消費をもし自覚的に政治的な効果を計量してコントロールできるなら、国家を超える存在に潜在的に成長しているということです。具体的にいえば、半年とか一年とかの期間、大衆が自覚的に選択的な消費、つまり衣食住に関わらない消費を抑制するならどんな政府も打ち倒すことができると吉本は語っています。その消費の抑制は決定的な経済の低迷を引き起こすことができるからで、その影響に耐えうる政府は存在できないからです。つまり大衆は国家を超えることができる。もし大衆的な自覚が存在するならば。それはいうならば消費の大衆的な規模におけるストライキです。悪徳な大企業に対する不買運動という現在もある運動を国家規模に拡大したものです。この論理の重要性はいまは全く無視されていますが、いつか必ず政治思想の中核となると私は考えます。
ではその国家を超える段階に潜在的には到達した高度資本主義社会の一般大衆の自覚ってやつは冬の次に春がやってくるようにやってくるでしょうか。そう簡単にはいかないよというのが吉本の考えだと思います。自覚というのはものの考え方が変わるということです。にんげんのものの考え方が変わるということの難しさは考え方が変わった経験をもつ誰もが知っているでしょう。それは人生そのもの難しさであり、社会や歴史のあり方の難問そのものです。それは現在流布されているあらゆる概念が組み変わっていく過程です。そこでひとりの物書きである吉本はこつこつと根底的な考え方の組み換えを原稿用紙に文字を埋めながら行ってきました。その一つを紹介すれば9.11の事件以降に書かれた吉本の文章にある戦争観として「存在の倫理」という概念を提出しています。吉本はハイジャック犯が世界貿易センターに突入する前に飛行機の乗客を解放しなかったという点を取り上げて、それは「存在の倫理」に反すると述べています。存在の倫理というのは通俗的にいえば命の重さということになるでしょう。にんげんが生きていることそのものが倫理を提起する、その倫理を存在の倫理と名付けているわけです。
戦争に対する思想はさまざまに提出されてきました。しかし吉本の考えでは保守的な思想も左翼的な思想も、また宗教的な思想も戦争に対する思想として不十分であるということになります。それはやはりそれらの思想が党派的にしか存在していないということだと思います。吉本によれば最も根底から戦争を否定する思想はシモーニュ・ヴェーユの思想です。ヴェーユは戦争を「政権を握っている支配者が、他国の労働者を使って自国の労働者を殺させることと同じだ」とみなします。それは資本主義国家間の戦争も資本主義と社会主義の国家間の戦争も戦争を利用して行う革命戦争というものもひっくるめて戦争そのものを全否定する思想です。そういう意味では党派的な思想ではない。このヴェーユの思想に倫理的な哲学を考えるとすると「存在の倫理」という概念になるのだと思います。
いろんなことをはしょって言うしかありませんが、この存在の倫理という概念が重要です。それは戦争論だけに関わる概念ではないからです。いまここに生きてあるということそのものをどう考えるかということですから、あらゆる人に関わることです。生きてしまっているということは根源にさかのぼれば自分の意思ではない。それは両親の性行為の結果である。しかし両親といえどもその生存の根拠は両親の意思にはない。それはまたその両親ににさかのぼる。そしていくら先祖をさかのぼっても生存の根拠は親子として継続していく生命の連鎖自体にはなく、結局太古の昔に生命自体が自然のなかから偶然誕生したというところまでさかのぼるしかない。いくらさかのぼっても責任を問うべきものが存在しない。もし現在の生が苦痛に充ちていても、両親にその責任をすべてなすりつけるわけにもいかない。なぜなら両親もまた生命の連鎖の偶然の生であるからだ。人間の生はそういう苦しみをどこにもっていったらいいか決められないものです。
では存在の無倫理ではなく、倫理はどこから提起されるのか。偶然の生の連鎖なら、倫理である必要などないのではないか。それは違うと吉本は考えます。なぜならば生命は存在したという根拠が無根拠であっても、存在したことによって自分の周囲に影響を与えるという面があるということです。生まれた時には意識はなくてももの心がついた時にはすでに自分は周囲に自分がいるということ自体で影響を与えている。自分はすでに周囲に対してなにものかであり、自分にとっても周囲の世界はなにものかである。その否定できない「関係ねえだろ」といって済ましていられない事態をどう考えるか。それが存在の倫理の内容であると思います。
結局その存在の倫理というものは自分が全面的に引き受けるしかないんだ、というのが吉本の考え方です。生きているということ自体には罪がなくノン・ギルティであり無垢であるとしても、生きているということがすでに引き起こしている事態がある。それが愛であれ憎しみであれ、それは自分が生誕したことが引き起こしたものだ。生誕自体がアンタの意思でないとしてもです。周囲というのは親であり兄弟であり、あるいは友人であり恋人配偶者、自分の子供、親族、そして社会であり国家であり世界でありというものです。そこに自分が生誕しうごめいて生きたということによって引き起こされた事態がある。それを拒絶するにせよ受け入れるにせよ、戦うにせよ和解するにせよ、それは自分が自分という生存によって引き起こしているものだから自分が背負うしかない。誰も背負うことはできないし、背負ってほしくもない。アンタ分かるでしょ?なんかそういう生きるということの落とし穴のどん底のところで思い決める時があり、そういう人生の瞬間があるんだと思います。そこに論理を与えることができるかという思想の問題です。
私が思うには精神の障害というものについてもこの存在の倫理の問題は重要な契機をもっています。なんでこんな目にあうんだ。誰もわかってくれない。死んだほうがいいい。その落とし穴の底にいるときに、その心に触れてくる考えかたはありうるか。存在の倫理という吉本の思想は触れうる考え方であると思います。そして戦争がなぜ全否定されなければならないかといえば、この存在の倫理に反するからです。自分の根拠を引き受けて生きるというにんげんの在り方を根底から消し去る暴挙だからです。これはそこらの平和主義や命は地球より重いみたいな主張と似ていますが深さが違います。文章が長くてすみまそん。