これを為してどうするのかといふ問いが絶えず僕を追つてゐる。僕は、それに対して何も大切なことは答へられない。完全に答へられない。僕はすすんでこのノートを取ってゐるのではなく、無理にといつて良い程習慣的に行つてゐるにすぎないのだから。習性は僕を生きさせるという教義は、怠惰な僕がひとりでに得た唯一のたのみと言つてよいものだ。(断想Ⅲ)

習慣ということの意味を初期ノートの時期、吉本は執拗に考えています。なぜ毎日を送るのか、なぜこういうことを今日もやり明日もやるのか。はぎ取っていい理由をはぎ取っていくと、習慣と化しているからやっているだけだということしか残らない。その底には生きていること自体が自分が選んだものではないというイノセンス(無垢)が横たわっています。自分の生を自分が選んでいるわけではない、気がついたら生きていた。そして習慣がなんだかじぶんをふつうに他のやつらと同じふうにふるまうふうに律している。だったらにんげんにとって習慣とはふつうに考える以上に重要な意味をもっている。それは受動的な意味だが、受動的なことこそ実は重要なのではないか。それはニヒリズムをさらに掘り下げる吉本の思想の耐久力が考えさせていることです。ではそのニヒリズムというものからどう脱出するのか。立ち上がる地面のない感覚からどう立ち上がるのか。存在の倫理というのはそういう吉本自身の血肉を通った虚無に裏打ちされた概念です。

おまけです。
「超『戦争論』」より          吉本隆明
(インタビュアーが自分がこの世に存在したことには自分は責任がない、もし責任があるとすれば生命を誕生させた自然か神にある、と考えることもできるのではないか?と問いかけるのに答えて)
吉本 ええ、そういう言い方は可能だと思います。ただし、深く考えていくと、そう簡単に「自分は責任がないっていうことはいえないよ」ってことになるわけですけどね。
 実際、僕は十代のときに、似たようなことを親父にいったことがあります。十代の頃は、血気盛んでしたからね。親父と言い争っている最中に、僕は親父に向かって、「俺、何も生んでくれと頼んだ覚えはないぞ」って、いっちゃったんです。そしたら、親父は急に黙っちゃったんですよ。それはげんこつで殴られるよりも、僕にはこたえましたね。僕は、それが親父の最大の怒り方である、というふうに感じました。