若しすべてのもののうちひとつのものを愛するならば、我々はそのもののためにこそ生きるべきものである。(断想Ⅳ)

ここで言われているすべてのもののうちひとつのものというのは恋愛対象の異性と考えてもいいし、自分の子供と考えてもいいし、さまざまに当てはめることができると思います。しかし私たちが幼児であった時に、愛する対象としてすべてのもののうちひとつのものであるのは母親です。自意識をもって以降にすべてのもののうちひとつのものを愛するということは、わたしたち個々の選択と意志の問題になりますが、幼児期に母親が唯一の愛する対象として存在するというのはみずから選んだわけではないあらゆるにんげんの宿命です。この幼児期における母親の絶対性のなかににんげんの精神の共通性を考えることができます。また幼児期における母親との関係のあり方の違いのなかに文化や文明の違いを探ることもできると考えられます。
心的現象論に「原了解以前」という章があります。原了解というのはにんげんが誕生して最初に身につける心的現象としての了解作用のことです。そして原了解以前というのは誕生以前の胎内における胎児の心的現象のことです。吉本は心的な考察を胎児期にまで拡張して考えようとしているわけです。
原了解以前という章にウィルヘルム・ライヒというフロイト門下の精神分析の医者が紹介されています。ライヒはかって70年代のピッピー文化全盛のころに性と文化の革命の旗手というかたちで日本に紹介された人物です。わたしも熱心にライヒの著作を読んだ時期があります。吉本がライヒをとりあげるのはライヒフロイト門下ではじめて原了解以前を視野にいれた人物だからです。それだけではなく吉本はライヒが胎児が出産の前後に受け取る傷について真正面から語った吉本が知る限り唯一の精神分析学者だと言っています。
ライヒは胎児の心について強烈なことを語っています。新生児は摂氏37度の子宮からほぼ18度ないし20度の外界に出てくる。非常に高温の身体的接触を胎内で9か月やったあと、胎外の気温のなかに誕生する。これは大変なことで甚大なショックだとライヒは指摘します。したがって新生児は母親に守られ暖かい身体的接触を得なければならない。もしそのような接触を得られず母親から引き離されたままで放置されると、新生児は泣き叫ぶ。それは「おお、聞いてください。わたしは、こんなに苦しんでいるのです」という言葉以前の訴えである。それでも接触を得ることができないと幼児はついにあきらめる。幼児はあきらめて「NO」という。言葉でいうのではなく情動においてNOというとライヒはいいます。さらに決定的なNOの契機としてユダヤ人の習俗である割礼を指摘しています。割礼は子供に対する扱いのなかで最も残酷なものだといっています。
幼児のこころに生じたNOは最初の「遺恨」のはじまりだとライヒはいいます。そしてにんげんとしての大きなNOが始まる。「その大いなる「NO」その遺恨、その無意欲、発展のなさ、人間はなまってしまう。人間は鈍感になり、死んだ状態になり、無関心になってしまう。しかもそのとき、かれらは偽似的な接触を発展させ、快楽を捏造し、知性を装い、うわべだけのもの、戦争等をこしらえあげゆく」つまりライヒは出産前後に損なわれた幼児の情動的な欠損状態が、大量に文化的につくりだされた結果、一人のヒトラーや一人のスターリンに数百万人の国民が支配される大衆状況を作り出すと考えています。
ライヒの思想は多方面に展開されますが、ここでは出産前後の母親との関係の傷が生涯をNOという情動的欠損状態に染め上げるという指摘をとりあげます。そのNOはエディプス以前の段階で生ずるわけです。エディプスとは子供が母親と父親に対して抱く葛藤であって、原了解の基幹をなすものです。通常の精神分析の考えでは個人の性格形成の始まりはエディプスの形成に始まると考えます。しかしそのエディプス以前、原了解以前に重要な段階、つまり胎児と新生児の出産を介してどのように扱われたかという段階があるということです。そこまで性格とか心的なものの起源を拡張して考えるということです。
幼児期からの生育史にさしたる障害の原因を探れなくても、大きなNOを背負って生きているというにんげんは存在することになります。その生き難さ、原因の見当たらない苦しさ、世界をおおうような絶望感は解消しえるのでしょうか。すべてのもののうちからひとつのものを愛するならば、そのもののためにこそ生きるという原了解以後の決意と思想はこのにんげんの起源から背負わされた大きなNOを克服することができるでしょうか。わたしに分かることはできようとできまいと次々とそれに挑戦するものはやまないだろうということだけです。