環境のなかに虫のやうに閉ぢこめられてゐる者が、徐々に動き出すときの形相を僕は正視しよう。そこにはあらゆる現代における思想の表象としての劇がある。(原理の照明)

こういう言葉を裏打ちするのは吉本の文芸批評家としての目利きさです。たとえば高橋源一郎が「さよならギャングたち」で登場した時の吉本の批評は、環境のなかに虫のように閉じ込められた者の蜘蛛の巣のような心的領域がどこにも還元されることを拒否して言葉のなかでうごめきだした姿を鋭敏にとらえています。そういう例はいっぱいある。思想家としての吉本の姿ばかり描くのは片手落ちで、三島由紀夫が見抜いたように吉本は文学を読む目利きとして超一流です。

おまけです。
「心的現象論序説」心的現象としての夢より    吉本隆明<夢>が<記憶される><心的なパターンとして現存する>ためには<正夢>でなければならぬ、いいかえれば覚醒時の心的な体験によってなんらかの意味で現実的に裏付けられなければならない。