生活すること、才能、思想、精神の構造、すべてに自信を喪つてゐる。(下町)

この文章はそのままの意味として受け取って、この文章と関係があるかどうか分かりませんが、自信を喪って落ち込む穴ぼこの世界について書いてみたいと思います。吉本は「悲劇の解説」という著書のなかで太宰治を論じています。吉本の描く太宰治は他者に対する疎隔感を感じる穴ぼこに落ちた人物です。他者に対する疎隔感とは吉本の言葉では「じぶんの心の動きから他者を推し量れない」ということです。「いくらやっても他者はじぶんとはまったく異なった根から養分をとり、まったく異なった原則で生きている異類としかおもわれなかった」という感覚です。
「最後まで人間がわからぬ、人間は怖ろしい、じぶんは人間から仲間外れになっている、という嬰児のようなおびえのまま立ちすくんでいた」という他人が怖いという気持ちです。
生活すること、才能、思想、精神の構造などといったことに対する自信は、根底に自分の心と行動から他者を推し量れるという手ごたえからやってくると思います。この推し量れるということから人間と人間の関係を理解し、それが社会観や歴史観につながっていきます。しかしその根底のところでじぶんの心の動きから他者を推し量ることができなかったら、いわば世界全体から疎隔感を感じることになるでしょう。それは宇宙のなかにぽつんと浮かんでいるような感じではないでしょうか。
吉本が描いている太宰治はこのような疎隔感を他者にも世界にも感じざるをえない人物ですが、その疎隔感は同時にむき出しの存在感と表裏をなしていると考えています。「ほどよいという感情は消えてしまい、砂漠のように渇いた無感情と、むき出しの過酷な情緒反応」というのがむき出しの存在感のあり方です。このむき出しの存在感の在り様には一種の魅力がつきまとうと思います。その魅力を吉本は、この人間や世界に対する疎隔感の場所だけが本質的な意味で人間らしい関係が占める場所ではないかというように書いています。
また吉本はこうした疎隔感の場所、つまり世界から隔てられる意識と、世界を内省する意識とは本来は同じところに根拠をもっている、と書いています。とするとこうした疎隔感を抱く人は生涯を苦しみのなかで送るかもしれませんが、逆からみればその疎隔感を通じて本質的な人間のあり方を洞察することがありうるし、そうした洞察力というものと、自信をすべて喪って失墜する失墜感とを紙一重で合わせもっているとみなすことができます。
こうした魅力と失墜感をあわせもつ人物というものはよく映画や小説に登場します。こうした人物が表現として現れる時に、鋭い本質的な魅力を振りまきます。同時にその人物とじかに付き合う時には、その渇いた感覚やむき出しの情緒反応にじかに振り回され、時に破滅させられたりする。そしてこうした人物自身も周囲の人を惹きつけたり反感を買ったりしながら破滅していく。そんなストーリーがよくみられます。
こうした人物やその人と付き合う周囲の人がともに破滅しないですむ道筋はあるでしょうか。渇いた感覚はその人物とつきあう者にも伝染し、むき出しの情緒反応にさらされてその人物とつきあう者も自分をむき出しにされていく。トラブル続きの、安定のない、心の安らぐことのないそういう関係に出口はあるでしょうか。それとも出口のようなものはなく、その落ち込んだ穴倉が終生の棲家となるのでしょうか。この問題を生きることは目にみえず、人に評価されることもなく、誰も知らないままに終始するたたかいです。これを難事業と呼べば、どんな目に見える難事業にも劣らない難事業であると思います。それは対なる幻想の世界のなかでたたかわれる欠損した対幻想を修復する全身全霊の賭け、やってみなければわからない賭けの世界だと思います。