僕らを真に束縛するものは、現実そのものであるといふ処まで行つて、あらゆる行為は自由のための、自由の表現となるだらう。(原理の照明)

自由は精神の由緒正しい根源だという若い吉本の発想は、やがて人間の精神というものの根源には生命体という有機体が無機的な環界に対して抱く異和があり、同時にその異和を打ち消したい衝動があり、その結果有機体にも無機的な自然にも還元できない領域をいわば架空の領域として生み出すという考え方につながっていくと思います。それは「心的現象論」で提起された原生的な疎外の概念です。吉本はこの架空の領域、つまり物質である有機体にも無機物にも還元できない(還元できないというのはそこから発生したものではあるけれども戻すことはできなということです)領域というものを幻想性という概念で呼んでいます。原生的疎外というのはだからにんげんだけでなく、あらゆる生命体がもつ幻想の領域です。猫にも犬にも虫にも幻想の領域は想定できるという考えになります。
ではにんげんの精神はにんげん以外の生命体の幻想性とどこが違うのでしょうか。生命は海の中のアメーバのようなものからおそらく発生し、長い年月をかけて陸地に上陸し海の生命体と陸の生命体に分化したんでしょう。陸にあがった生命体はさらに環境に適応して分化し、その中のサルの祖先である種族のなかからにんげんの祖先が分化したんだと思います。するとにんげんの精神の由緒正しい根源というものは、なぜサルの祖先からサルの種族のまま進化した連中と、にんげんの祖先である連中が分化したのかという謎のなかにあると考えることができます。その問題について私が知っているのは吉本が講演会で語った部分だけです。
ただこれは以前にも書いたことなんですね。もうね知ってることはだいたい書いちゃってるんで枯渇してるんですよぶっちゃけた話が(_ _,)/~~
吉本はサルからにんげんに分化する契機をエロスの領域に求めています。つまりオス猿だとすれば、このメス猿が欲しいというエロスです。どんなメス猿でもいい、性欲を満たせばいいというのではなく、このメス猿じゃないとイヤだというエロスです。エロスというのは性という領域の在り様です。性交したいという生命の本能があって、それを環境のなかにいる異性のサルを見つけて充たす、そのことによって種族が存続するわけですが、そのなかでこの子じゃなきゃ俺はイヤだというエロスのあり方は本能でありながら本能から疎外された領域が形成された始まりなんだと考えます。それはまた極度の幻想性の自己集中の結果です。これをにんげんの精神の由緒正しい根源だと考えると、にんげんにとって精神の根源的な自由は自分にとって唯一である異性を求めるということにあるということになるでしょう。それは恋愛の起源であり家族の起源です。また吉本の概念では対なる幻想性の起源だといえます。
初期ノートの文章に戻りますと、要するに自由というのは夢の中にある、つまり内面の中には自由への憧れがあるけれど、その自由を現実に実行できるわけではないということを言っているんだと思います。それは現実が阻むからです。だから自由というものはそれを阻む現実との闘いだということです。だから現実の構造を知らないと自由のために闘えない。現実の構造というのは社会の物質的な歴史的なあり方だけでなく、にんげんの幻想性の根源と現在というものも解明されなくてはならないということを言っているんだと思います。そこでこの初期ノートの文章全体を概念として含むものを「自立
という概念と考えることができます。自立という概念は一般大衆のための概念です。あらゆる大衆が内面の自由への憧れを果てしなく拡大し、その自由のために歴史的現実の全構造を把握して忍耐強くその実現のために闘うという構想がこもった概念を自立と呼ぶのだと思います。それは自由というものを含んだ包括的な概念です。
支配するもの、管理するもの、富と権力を永遠に自分たちの血族で独占したいものたちの最も恐れるのは一般大衆の自立です。いまのエジプトの数百万のデモに象徴されるような一般大衆の自由への憧れと現実構造の鋭い認識が蔓延することが、支配する者たちには体がふるえるほど怖いだろうと思います。だから自由への内面の欲求を抑圧し、歴史的現実の支配構造を隠すことに精力を注ぐわけです。現在の日本の大新聞とテレビ各社は完全にアメリカの金融資本と財務省を中心とする日本官僚と大企業に支配され歴史的現実を大きく歪めた報道を繰り返しています。日本人にうつ病が増えているとすれば、そのうつの背景をなす最大の理由はマスメディアによる歪んだ現実報道の脳への刷り込みにあると私は考えます。歪んだレンズをかけさせられて毎日暮したら頭がおかしくなるように、心の奥があいまいになり矛盾に充ちさせるような歪んだ現実の像を毎日刷り込まれたらうつ病にもなるはずです。治療法は現実の本当の姿を暴くことだけです。
にんげんの精神の由緒正しい根源がエロスにあるのだとすれば、大好きになった異性といっしょになって家族をいとなみ、気に入った仕事をして休みには家族と暮らせばだいたいにんげんというものは充たされるのかもしれません。しかしその家族を守るために働かなければならないこの社会が遥か天の上の神々が住むような所から私たちを支配する連中の決して公開されることのない謀議によって支配されているという本当の現実がにんげんとしての私たちの歴史的現実です。その支配の現実をむきだしに暴き、この社会を覆ううつの原因を振り払えば、自由への自立への欲望は大衆的な規模で発生すると思います。それは幾たびも歴史のなかで起こった事実だからです。