あらゆる思考はそれが感性に依存する部分をもつ限り、瞬間的に生起し、瞬間的に消去する。(断想Ⅶ)

そうかこっちの解説もあったんだ。はやまって挨拶をしちまったい(*^-'*)>
この文章はつまり感性というのはころころ変わるからですよね。思考というのは脳が行うものでしょうが、脳の思考という出力に対して入力として影響を与えるものを考えると、身体の表層的な部分から五感や皮膚、筋肉への刺激として入力されるものと、内臓という暗闇からやってくるものとを考えることができます。これは吉本が後年三木成夫の解剖学を土台にして考察していることです。表層的な部分からやってくるものを脳が思考する領域をここでは感性と呼んでいるのではないでしょうか。では内臓の関わる思考の領域はどう呼ばれるのか。それはまだ概念としてなかったんだと思います。ただ言い方は昔からあります。ハラワタにしみこむとか、胸が痛むとか、腹が据わっているとか。内臓からやってくるものも長い経過のうちには変わりますが、感性に依存するものよりは変わらない。それは瞬間的に生起し消去するといっているのだと思います。三木成夫の仕事に吉本が出会うには老年になってからですが、若いときから感性以外の思考や言葉にこもっていくものへの関心があって、それが自己表出という独自の概念を作り出す前提になっていたことが分かります。

おまけです。

「15歳の寺子屋 ひとり」             吉本隆明

三島由紀夫っていう人は、幸福になればなるほど、立派になっていけばいくほど、本当は不幸だった気がします。自分の不幸というのを人にいえないで、お腹の中に全部しまっていて、それがとうとう終わりにどこか破れて中身が出てきた。赤ん坊の時の育てられ方から始まって、そういうのがずっとお腹ん中に溜まって、どうしようもなかったっていうのが三島由紀夫という人でした。