人類はすべて二つの階級圏にわかれたる。その一方は、一方の抑圧と搾取のうちに僅かに生存を維持してきたのである。抑圧は当然、精神の財の貯蔵にそのすべてをかたむけることを余儀なくし、一方はその支配の強化のためにすべての物質財を貯蔵し、このために精神を奉仕せしめた。今や二つの階級圏は自らの方法を転倒せねばならない。(断想Ⅴ)

二つの階級圏というのは資本家階級と労働者階級という意味でしょう。農地とか工場とかオフィスビルとかの生産手段を所有しているのが資本家であり、労働力以外の何ものも持たないというのが労働者階級です。資本家は労働者を雇い、自分が所有している生産手段に従事させて生産物を作らせる。その生産物を販売した金銭の上前をはねるのが搾取という概念です。労働者は自らが働いた価値のすべてを受けとることはできない。僅かに生存を維持するだけのものを労賃としていただき残りはすべて資本家がふところに入れる。そして資本家階級と労働者階級の階級の分化は次第に拡大して少数の富を独占する資本家階級と膨大な無力な労働者階級が存在する社会に至る。この段階で労働者階級が世界的に連帯し資本家階級を打倒すれば労働者が世界を統治することができる。それが古典的な革命という概念だと思います。それを現実に達成したのがソ連と中国だというふうに信じ、共産国といわれるものを天国のように憧憬したのが戦後の日本共産党社会党です。それが実際にはどういう興ざめな残酷な実態であったかというのはその後の歴史が証かしています。
しかし初期ノートの頃の吉本はまだそこまでは分からないわけです。まだ古典的な革命の概念を信用していたのだと思います。それはすべての左翼思想に触れた人々が同様だったわけですから吉本の落ち度にはなりません。やがて吉本は孤独にその古典的な革命の概念を疑い、自らの思想を作っていかざるをえなくなっていきます。しかしここでノートで言われていることに戻ると、ここでは階級と文化の問題を考えていることがわかります。労働者階級は物質財を持っていない。だから精神の財の所有にすべてを傾けざるをえない。一方資本家階級は物質財のすべてを所有している。そして経営とか統治という支配を行うために精神を支配のために奉仕させていると言っています。そして古典的な革命という概念を前提にするなら、二つの階級はその方法を転倒しなくてはならないと考える。なぜならやがて革命によって世界を統治する労働者階級は世界経営とか世界統治という資本家階級の行ってきたことを自分たちで行わなくてはならないからです。また世界支配からひきずり降ろされる資本家階級はもはや支配する仕事がないわけですから精神というものに目覚めざるをえないだろうということじゃないでしょうか。
こうしたマルクスの生きた資本主義の初期の社会分析を土台にした階級概念や革命概念がいかに現在の社会に通用しがたいものであるかは、吉本自身が生涯の仕事として解明してきました。それが吉本を共産党社会党つまりソ連中共の子分たちだけでなく、その後登場した新左翼の思想とも対立させ闘争させた理由です。しかしノートに則って現在も生きている問題意識を探すとすれば、それは精神財という言い方で言われている内面の探求が、経営とか統治とか支配というものと相容れないものだという洞察ではないかと思います。
相容れないということはひとりの人間の中に経営や統治と内面の探求が同居できないという意味ではありません。同居する場合はそのふたつの次元の違いがよくひとりの人間に了解されていれば可能なので、そういう人物はありえます。しかし集団とか社会という共同性に関わる経営とか統治とかの次元と、あくまでも個の内面を孤独に探求することを本質とする芸術・文学・思想表現という次元を峻別できる人物はまれです。人間はあることにまい進し専念すると、そのことが世界のすべてのように考えがちです。だからインテリは世界中がインテリだけでできているようについ考えてしまうし、政治行政の支配層は世界中が統治するものとされるものだけで構成されているにすぎないとみなしてしまいがちです。また芸術家や文化人は世界中が文化芸術に関心をもっていると思いがちなわけです。
たとえば最近東京都が過激な性描写のあるマンガやアニメを規制する青少年健全育成条例改正案というものを可決する方向に進んでいるそうです。それに反対する漫画家やアニメ作家や出版社もあります。これも統治権力が個の表現を規制しようとする一例です。性犯罪があり、その犯人は性描写の過激なマンガやアニメのファンであった。だから性犯罪とそうした表現は関連があり、表現を規制すれば犯罪は減るだろうというのが統治ということに専念した人間の考えがちなことです。しかし吉本の幻想論に則って考えれば、それは世界というものを平板に考えている結果です。個人というものを統治という観点から見える限りでしか見えていないということになります。個人を統治される対象としか見ていないともいえます。
吉本の思想によれば個である人間の内部には無機物から人類に至るあらゆる自然史の段階が含まれ、また古代から現在に至る人類史のあらゆる段階が含まれています。過激であるとか青少年の育成にふさわしい健全さであるとかいう差異は、人間の内部にあらゆる段階の内面性が混在している差異だといえます。だから個のなかにあり表現としてあらわれるあらゆる表現は、表現者がためらったり出版社が受け入れなかったり購読者が買わなかったりするのは自由ですが、法規制によって規制するのは断固として排すべきものだと私は考えます。なぜなら法規制というのは社会にとっての絶対的な禁圧だからです。個というものは弱いものですから権力による絶対的な禁圧が蔓延する世界に生きると、禁圧を受け入れ自らが自らを禁圧しようとしはじめます。そして萎縮した内面をもつ個人が増えるほうが統治する連中にとってはやりやすい社会となるわけです。
この東京都青少年育成条例の責任者は知事である石原慎太郎です。石原はチンポコで障子を突き破るという当時としては過激な性描写の小説でデビューした小説家でした。当時の石原は個の内面の自由と深さについて少しは知っていたでしょう。しかし政治家として専念しまい進したその結果、性描写を禁圧する責任者に堕落してしまったわけです。しかし石原が堕落した表現者だという問題は小さな問題です。石原だけでなく現在の政権と行政の権力を握るものたちが、崩れ行くアメリカを牛耳る巨大金融資本の手下であり、崩れ行くアメリカを守るために属国群の国民に対する社会規制を強化し次第に萎縮させて何を行おうとしているかが大きな問題だと私は考えます。それが戦争であるのか災害であるのか金融崩壊であるのかまだ分かりません。しかしそれは確実に計画され実行されようとしていると思います。
統治権力の奪い合いという権力闘争は人類史とともに古く、戦争中にも戦後にも現在にも世界的な規模で行われています。そしてよりましな統治権力のあり方から、最悪のあり方まで様々ありえます。だから政治の問題というのは十羽ひとからげだと軽蔑することはできません。しかし吉本が初期ノートの頃からそうした統治権力の闘争に対して孤独に突きつけていた断固としたNOというものが重要だと思います。それは個の内面性といういっけん弱々しく取るに足りなそうな、悪徳に染まりやすそうな、スケベで怠惰で卑怯で秩序からすぐにはみ出しそうなものが、この世界の成り立ちのすべてを含む海洋のようなものだという洞察からきています。その個のなかの海を守るために、吉本は人間のもちうる心的な領域を刻苦の末に論理化してきたわけです。個の内面性の世界を共同性の領域の次元で規制したり禁圧したりすることは論理として成り立たない。その論理的な業績を遺産としてまだまだ長い長いたたかいが続くとしか思えません。まったくやれやれです。