世界は一つの絶望のなかにある。若し人間精神の所産が人間精神を危機に陥しいれつつあるのが、この絶望の原因であるとするならば、それはヨーロッパの負ふべき絶望であらう。アジアは斯かる段階に対して何ら必然的な寄与をなさなかつた。アジアの絶望はその覚醒を阻害するところの現実に対する絶望である。(断想Ⅳ)

世界は一つの絶望のなかにある、というのは第2次世界大戦後の世界のことを指しているのだと思います。人類の歴史の果てに世界を舞台に戦争が行われ、多くの人間が殺戮された。こんなことが人間の文明の行き着いた結果なのか。これが絶望なのだと思います。
この世界大戦というものを導いたのは人間の生み出した経済であり政治であり、科学技術であり思想であり哲学であるわけです。それが人間精神の所産です。人間の精神の生み出した文明が人間同士を殺しあう戦争に導き、その結果戦後に生き残った人間の精神を絶望という危機に陥れている。そうだとすればその人間の精神の所産を生み出してきたのは主としてヨーロッパだということになります。アジアはそのヨーロッパの生み出した文明を模倣してきただけだからです。
ここで吉本の言っていることの特徴はアジアとヨーロッパを地域の違いだけでなく、歴史段階の違いと捉えていることです。だから「アジアは斯かる段階に対して何ら必然的な寄与をなさなかった」と書くのだと思います。こうした考えはマルクスに負っていると思います。精神の発達にも歴史的な段階があり、それは風土気候といった自然条件を根本にして生産の発達の違いという経済制度に反映し、それが精神の発達を規定する。だからヨーロッパにもアジア的な生産と精神の段階は存在したのであるが、それは速やかに過ぎ去って近代的な文明の段階にいちはやく到達します。そして私たちの住む地域としてのアジアはまだヨーロッパのような精神の所産を自ら生み出す段階に到達していない。それが吉本の判断だと思います。その自らの文明を模倣でなく自ら生み出すことが全然できていない段階だと痛切にわかるということがここでいう覚醒だと思います。全然アジアは世界に通用する自らの文明を生み出すことができない。アジアのローカルな文明はありますが、それを世界普遍性に押し上げる論理と思想の力がない。ヨーロッパを模倣する早さと巧みさを競っているだけのことである。アジアに絶望があるとすれば、それはヨーロッパのような自立した世界普遍性をもった文明の絶望とは違う。アジアの絶望は世界普遍性を獲得できない段階にあるという覚醒を阻害する現実に取り囲まれているという絶望だ、というのがここで言われていることです。
どんな現実が覚醒を阻害しているのかといえば、それはたとえば現在もいっこうに変わりませんが政治でも経済でもすべて日本の国内だけで生起しているように報道され解説され論議されることです。世界というものは大きくいえば世界統治というものがあります。世界全体をどのように覇権をもった大国が統治するかという枠組みと課題が世界政治を規定しています。その世界政治の動きと力関係のなかに日本の政治問題も存在します。しかしそんな視野から日本の国内政治を報道したり解説したりする大手のメディアは存在しません。日本の国内の党派や派閥や個々の政治家の動向があたかも日本国内の政治のすべての原因であり結果であるかのように語られます。なぜそんなふうに世界に対して盲目にするのかというと、それが現在まではアメリカによる世界統治そのものの愚民政策であり、その覇権国の統治のもとにあやつられひれ伏させられている日本の支配層の生き様だからだと思います。その盲目から解き放たれて覚醒するとすれば、たちどころに日本やアジアが覇権国の世界統治や世界経営にひれ伏さざるをえない惨めさと非力さが見えるでしょう。それは日本の偉そうに振る舞っている支配層の、つまり俺は総理だとか大臣だとか高級官僚だとか大新聞、大テレビ局だとか言っている連中の奴隷的な卑屈さと無能さが暴露されることでもあります。しかしその惨めさの根源にあるのはもっと深い絶望だというのが吉本の指摘だと思います。
もっと深い絶望というのは結局アジアがまだ自らの足で立つ世界普遍性をもつ知識や思想を生み出すことができないという絶望だということです。政治家や大新聞や官僚や知識人たちを馬鹿にしてすませる問題ではない。馬鹿にしているものたち自身が同じ惨めさと模倣しかできない段階のなかに閉じ込められているからです。指導者ぶったりエリートぶったりしている連中を笑うことは、そのまま自分自身を笑うことである。その自意識が単なる反体制的な自分を棚にあげて正義派ぶる連中と吉本を区別しています。
絶望に覚醒した若い吉本に残された道は、自分ひとりでできるところまでやってみるということだけです。以降、言語について、文学について、宗教について、政治経済について、歴史について吉本がその本来性である孤独な研鑽の時間で向かい合ってきたのはいかにして世界普遍性を自らの生き方と思想が獲得するかという課題だったのだと思います。平凡な庶民として多くの人たちのやることはすべて経験して生きようすること、原理的な思考の上にいかにして現在の諸問題に関わるかということ、発言するのが苦しく孤立を深めるような状況であるほど勇気を振り絞って発言すること、そういった吉本の特長はアジアの絶望した民衆のひとりとしていかに世界普遍性に到達できるかという試行であったと思います。