最早、僕は自分の言葉が他人に全く通じないものになつてゐることを信ぜざるを得なかつた。あらゆる僕に対する批難は僕の陰で行はれたが、それは手にとるように判つた。どうして?何故?このような問ひは僕に関する限り何らの意味も持つてゐない。どうして?何故?こんな言葉は僕には了解することは出来なかつた。(断層Ⅳ)

ちょっとカッコつけた言い方だと思います。若いなーという。
自分の言葉が通じないというのはしゃべってもしゃべっても通じないということです。もはや書くことでしか通じる可能性はない。しゃべり言葉には盛り込める限界があるわけです。しかし書いたって相手が読むとは限らないし、この頃の吉本の書くものは出版もされていないわけです。となれば言葉が通じる人がいないとがっくりするのも無理はない。でも書いて出版する人なんて社会にはほとんどいないんだからほとんどの人はがっくりしているはず。吉本がそのことに気づくのはまだ少し先のことです。どうして?何故?という問いがなぜ自分には意味がないというのか。それはしゃべり言葉の限界内で説明できる動機ではないからです。動機がないわけではない。しかし無意識の底まで探らないと表現できないような深い動機をどうしゃべればいいのか。ほっといてくれ!俺の勝手だろ!かんけーねーだろ!そういう言葉はしゃべりようがないということです。だから沈黙も言葉です。書くという契機や修練のない人はいっぱいいる。沈黙を聞けなければ、世界は統治者が思い上がって考えるような平凡でおとなしくて時々性犯罪をおこすようなつまらない大衆ばかりがいるとしか視えないでしょうよ。けっ( `д´)

おまけです

吉本の新刊「15歳の寺子屋 ひとり」より          吉本隆明

寺子屋」開講
さあ、どうぞ。もっとお楽に。
お行儀悪くなさってください。

どうぞ。何でもきいてください。
悪いことでも何でも。

正直にお答えします。
それが僕の唯一の取り柄です。

どんなことをきかれてもいいし。
どんなかたちの質問でもけっこうですよ。