精神の体操は僕を爽快(そうかい)にしたことはなかつた。かへつて衰弱の感覚を与へたのだ。すると僕は精神が肉体のやうな現実性を獲取するまで、それを鍛へるより外仕方がないのかも知れないと思ふ。(忘却の価値について)

精神の体操というのは要するに「考えること」を指していると思います。なんで体操なんていう言い方をするかというと、考えるという作業自体を考えると、考えるとか論理を追うということにはいくつかのパターンがあるために、そのパターンに沿った体操をしているようなものだ言いたいからだと思います。たとえば具体的な事柄から考え始めて、次第に抽象的な概念に移るとか、その逆に抽象概念から具体的な事柄に考えを降ろしていくとか。そういう思考のパターンとか方法というものを体操になぞらえています。
しかしいくら考えても爽快にならなくてかえって衰弱の感覚がある、それは思考が現実を捉えきっていないためだから捉えるまで鍛えようということでしょう。考えることが肉体のような現実性を獲得するまでということは、考えが単に論理として現実を捉えたというだけでなく、その現実のなかに個人として生きて生活している自分自身の感覚とか感情、生理的なものまで考えの中に入れるということだと思います。理屈としては通っているように思えるけど、自分の感情や無意識が自分の思考に対して齟齬を感じているということに吉本は敏感です。言い換えれば実感の伴わない考えは不十分な考えだとみなしています。爽快にしないとか、衰弱感を与えるという生理的な言い方はそこからくると思います。
ただ別の観点からいうと、吉本のこの思考についてのこだわりは思考の内容に関わることです。つまり社会をどう捉えるのが現実に即しているかというようなことです。そしてもし充分に捉えたという自信がついたときはその考えを発表したり、考えに即して行動したりするわけです。それは社会とか他人と関わっていくことです。吉本のなかには自らの思考が本当に現実を捉えているだろうかという悩みはありますが、考えを伝えたり考えに即して社会や他人と関わるということをぐじぐじ悩んでいるわけではありません。もちろん悩みがないわけではないでしょうが、それは越えていけることと見なされています。
しかし私たちが日ごろの生活や仕事でぶつかる自分や周囲の人たちの悩みはもっと情けないというかずっと手前のほうというか、つまり考えをまとめようにも対人的な恐れがあって、感情が沸騰して考えがまとまらないとか、同じところを果てしなく堂々巡りしてしまうとかいうレベルのものが多い気がします。あるいは考えや感情を伝えたくても伝えることができない、それは越えることの難しい社会や他人への恐怖のためです。会社や家庭や隣近所のつきあいの中で言いたいことが言えない、言った後にやってくる気まずさや相手の怒り、いじめや反感などが怖くてたまらない。だから自分の考えや感情を伝えるというところで立ち止まってしまって前に進めない。なんとか伝えないですむように回避の策を考える。でも回避すれば結局自分が我慢に我慢を重ねるという結果になってしまう。そして我慢ができなくなると再び怖くて相手に自分の胸中を伝えられないという入り口に戻ってくる。そんな悩みです。それは卑小ですが日常的に申告です。
このような対人的な恐怖感に基づいたひきこもりの心理は、たいてい根性がないとか世間にもまれていないという軽蔑を含んだ説教の対象にされるものです。しかし昨今だんだん露骨になってくる現在の日本の政治状況のなかで、私たちは政治家や官僚やメディアの人間の多くが自分を押し殺して自分が信じていない虚偽の大衆誘導にたずさわっていることを知り始めています。なあんだ、結局偉そうに社会の上のほうでふんぞり返って、賢そうにしている連中も同じような対人的な恐怖に支配されているじゃないか。
しかしこのようなひきこもりに心理の深層には世間通ぶった説教では届かない深い根拠がある場合がありえます。それを吉本は太宰治についての評論で追求しています。それについて詳しく語る時間が今日はありませんが、興味のある方は吉本の太宰治についての評論を読んでみてください。それは吉本の作家論の白眉ともいえるものです。