心理の諸映像を論理に写像すること。これが僕の現在の主題だ。思考を鍛化する操作だ。(原理の照明)

こうした独特の言い回しは化学者としての思考方法からきているんじゃないかと思います。俗っぽくいえば論理を組み立てるときに心情とか感覚とか気分というようなものを論理に組み込むということを言っているのだと思います。実感とは本音というようなものを排除して論理を組み立てないということでしょう。
論理というものが西洋からの輸入である以上、それをアジアの日本のなかで活用するには日本のなかの生活から生まれる心理の諸映像というものを逐一西欧的な論理のなかに注ぎ込み葛藤させる必要があります。そうしないと日本やアジアでしか起こりえないような事態や状況を分析するすべがないからです。

おまけです。

講演「現代を読む」(1991)より           吉本隆明
「現代」と「現在」とを区別してみることは、ぼくの考え方ではたいへん重要だと思います。ぼくの理解の仕方では、日本の社会が「現在」に入った兆候を見せたのは、1973(昭和48)年頃です。わかりやすい象徴を言いますと、そのときサッポロビールが《天然水№1》を発売しました。いわゆる名水、水を初めて売り出したのがこの73年です。
マルクスのように興隆期の資本主義を分析した人が言うところでは、水とか空気はたいへんな使用価値があるが、交換価値はないということになります。ところが天然水を売るというのは、水に交換価値が出てきたことを意味します。それは、経済の段階で資本主義が一段階上に行ったということです。初期の興隆してゆく資本主義分析の基礎になっている考え方が、やや通用しがたくなった兆候が、日本社会では1973年前後にさまざまなところで表れ、そのとき以降日本社会は「現在」に入ったと考えられます。それは、社会が未知の段階に入っていったということです。