僕は形骸のみの人間になつてゐる。肉体も精神も痩せてしまつた。(原理の照明)

漫画家の西原理恵子は歯に絹を着せずに真実をずけずけという面白い人です。ついでに言うと西原の弟分のような文筆家のゲッツ板谷という人は私は平成の太宰治だと思っています。ホントかよと思う人は文庫本で出ているゲッツ板谷のエッセイを読んでみてください。ふざけたことばかり書いているようだけどそれだけじゃない。ハラワタまでさらけ出そうという文学の魂をちゃんと持っています。さてそれはそれとして、西原理恵子が以前テレビのインタビューで、どんな男性が好きですかと問われて責任を取る男と答えたのが印象深かった。インタビュアーはもっと色っぽい答えを期待していたかもしれないがさすが西原、場に合おうが合うまいがホントウのことを言うと思いました。確かにそうです。顔でも経歴でもない、責任を逃げずにとるのがいい男(女)だと思います。
吉本がなんで形骸のみの人間になったというようにクタクタになっているかというと、吉本が責任を取る男だからだと思います。私が若い頃に吉本の文章に接して、なにに惹きつけられたかというと、ここに孤独に耐えて自分が負った責任を取ろうという男がいるという直感でした。なんの責任かというと、自分自身の考え方の正しさに対する自分自身の責任が根本だと思います。そしてそれはまたひとたび自分の考えを公表すれば、公表された自分の思想を受け止めた人(読者)への責任ともなります。吉本は職業として文芸批評家ですからその職業上の責任も加わります。しかしこの初期ノートの当時は吉本の読者といううのは少数だったでしょうから、本来的な自分の自分への責任というものが吉本の肉体も精神もやせ細らせるほど重くのしかかっていたのだと思います。
吉本が少年期から繰り返し見た夢というのがあります。
「幼い日、仲間達と遊んでいると何か取り返しのつかないことをしてしまい、仕方が無いのでみんなで腹を切ってしまおうという話になる。私は嫌だと言ったが、みんなから卑怯だとののしられる。そこで私は嫌々ながらみんなと一緒に腹を切った。けれど仲間は誰も腹を切らずない。私は仲間を卑怯だとののしるが息が段々苦しくなる。仲間は私を嘲笑するでもなく、奇妙な沈黙の中にいる」(吉本隆明
この夢は吉本がひとりで責任を取ることと、それに反して結局まわりの誰も責任を取ろうとしないという吉本の人生の象徴になっています。
吉本の批評家としてのデビューは文学者の戦争責任論でした。自分が戦争期に信じて命を賭けたことが誤りであったという後悔と屈辱のなかで、吉本は自分の思想への責任を取ろうとしていきます。その自分自身の責任を取るということを踏まえて、吉本は他の文学者の戦争責任とその論議のあり方を批判しています。吉本の戦争責任論は日本共産党系の文学者を始めとしてさまざまな文学者の反批判を受けました。その論争を読むなかで、私は吉本はなによりも自分自身の責任を取るということを第一義にしたうえで他者の批判をしていることがよくわかりました。この人は責任を取るということにおいて本気なんだということがわかりました。吉本はその人生で何度も他の文筆家が沈黙してやりすごす局面で、はっきりと自分の見解を表明しています。そのことでどんどん吉本はジャーナリズムの主流から追放され、吉本の苛烈さを恐れて知人も離れていきます。しかしこの人は本気で責任を取り続けているんだとわかる人にはわかるでしょう。
責任を取るということはなによりも心が重苦しいことです。自分だけの心地よい内面を維持して楽しく機嫌よく過ごしていきたいのに、そこに自分が傷つけた、自分が罪をおった、自分が客観的には関わっている、という重たい外部との関係が割り込んでくる感じです。自分が自分を赦し、自分の周囲の小世界の価値観も自分を赦してくれるのに、そこでほがらかに楽しく安全にしていたいのに外部からおまえは、あるいはおまえたちの小世界はもっと厳密な全社会的な関係のなかでは無責任で罪があるのだと指摘される。そのことは大変な重圧をぬるま湯につかった内面に与えると思います。
私が若いときに政治家であった父親とか、学校の教師とか、読者として接する文筆家とかに抱いた反感はそれと同じものでした。あんたたちは自分が公表している言動のホントウの責任を放棄しているじゃないか、あるいはホントウの責任から目をそらしているじゃないかということです。しかしそれは自分を棚の上に置いたものでしかなかったともいえます。もっと年を食って、自分が自分の責任を問われるようになったとき、責任を問われる、責任を負わされるということがどんなに嫌ぁ〜なことかよくわかりました。それは子どもがいやおうなく大人になる契機です。
しかしそれでも西原理恵子のいうように、責任を取る男というものがやっぱりいい男(女)なんだと思います。それも自分の属する小さな世界、会社とか役所とか政治党派とか宗教団体の内部の価値観ではなく、もっと広い大きな社会的な関係性をちゃんと踏まえた責任を果たすという男(女)は素晴らしい存在ですし、見ていてすがすがしいですし、まためったにそういう人はいないわけです。吉本は若い頃からそういう姿勢を保ってきました。それが吉本の文章や詩を彩る重さ、暗さ、孤独、感覚の跳ね回るような軽さのないことの理由です。代わりにあるのは強烈な倫理性、自己嫌悪、社会嫌悪、闘争心、論理性などです。重くて暗くて難しい。しかしその逃げようとしない魅力は格別です。一人になっても責任を果たす、それこそがホントウの連帯というものの基盤です。辛い孤独のなかに出会いはあります。