僕は現実社会に依然として存在してゐる権力の支配とその秩序を憎む。だが現実そのものに対する嫌悪、それから人間の条件である卑小性をもつと憎む。(断想Ⅵ)

これは具体的に言うと、たとえば吉本が敗戦後に復員してきた軍人たちを見た時の気持ちにあらわれています。復員兵は大量の物資をリュックに詰めて日本に帰ってきた。それを見ている吉本は、徹底抗戦もせずにおめおめと帰国する兵隊に嫌悪を感じる。なぜ国家が戦争しろといえば黙々と従って死線に向かって従軍していき、国家が戦争は負けたといえば黙ってぞろぞろと戦場から帰ってくるのか。本土決戦という理念は跡形もなく消し飛んで、どこにもゲリラ戦でも行おうという一団は存在しない。しかし自分だって、もしそういう勢力が現れたら合流しようなどと思っているだけで、一人ではなにもできないしどうしたらいいかもわからない。そうして日々は流れ、秩序は回復していき、力をつけていく国家が新たに指差す方向にまた人々は黙々と従って進んでいく。自分もまた自己嫌悪と社会への嫌悪にくすぶった内面を抱えながら、その人々が作る社会の一員とならざるをえない。近親憎悪という言葉通りに、遠くにある権力への嫌悪より身近の支配されるもの同士の相互の嫌悪のほうが深刻なこともある。支配するものよりも、支配を受け入れて闘うことのできない自分たちへの嫌悪が身を噛むように突き刺さる。そして突き詰めていけば人間の条件である卑小性に突き当たる。なぜ生きるために働かなければならないのか。働くことによって集団の一員に属さなければならないのか。そして集団を支配する支配者をなぜ乗り越えることができないのか。人間は生涯を蟻のように羊のように権力の思うように操られだまされ殺されて生きていくしかないのだろうか。
吉本の戦後は激しい嫌悪と怒りのなかで始まり、その情念は優れた思想となって昇華されていったといえます。吉本一個の思想が苛烈に暴いたのは、戦後の思想のインチキ性でした。吉本がいなければどんなに穏やかなスターリニズムの支配が続いたかしれません。だから吉本はマスコミやジャーナリズムに巣食う左翼の編集者や物書きに憎まれ、メジャーな出版世界から無視され追放されてきたわけです。それでも吉本が戦後ずっと第一線で書き続け、多くの作品が出版されたのは熱心な読者の支持に支えられた無視しようのない批評家としての実力という力技のためだと思います。そこまでの格段の力がないと、ジャーナリズム、マスコミという観念を支配する勢力を苛烈に批判する思想や批評が生き残ることはできないでしょう。
今、民主党の総裁選に小沢一郎が立候補を表明しています。小沢が総裁になれば小沢首相が誕生するでしょう。この小沢一郎に対する民主党政権誕生以降のテレビ、新聞、雑誌のネガティブ報道は凄まじいものであることは誰もが知っています。なぜ小沢はここまで全マスコミに攻撃を受けるのか。小沢への攻撃材料である政治資金報告書の記載ミスという問題は、検察が起訴できなかったことで明らかなようになんら犯罪性のあるものではありません。政治資金報告書の記載ミス程度のことで政治家を全マスコミが攻撃するなら、全政治家の調査を行えば膨大な数の政治家が攻撃を受けなければならなくなるはずです。マスコミを使った政治的攻撃というものはこのように、公平に扱えばもっと広範な広がりのある問題を一個人のみの責任のように意図的にアピールする特徴があります。たとえば力士の野球賭博の騒動といったものも同様です。賭博ということにはいわば文明史的な根拠があります。単に賭博はいけないことといった清潔主義の道徳観念が、競馬競輪競艇パチンコといった賭博を楽しむあるいは身を滅ぼすほどにのめりこむ人間と社会に対してなんの意味があるかということです。ヤクザとの関係というものは、相撲協会だけでなく政界財界マスコミすべてを包み込む根深い構造的な問題です。構造的な広がりと深みをもった問題を、個人や個々の集団のみに負わせて攻撃する背景には常に政治的な意図が存在します。
戦争に負けた敗戦直後の一時期は、世界と日本の秩序の目に見えない構造が一瞬レントゲンにかけられたように見通せた貴重な時期なのだと思います。60年安保の時も同様に世界と日本の支配秩序の構造が透けて見えた時だったでしょう。そして現在、アメリカの潜在的で深刻な経済危機を背景にして、民主党政権が誕生して以降、再び世界と日本の支配秩序の構造が一般大衆の目にも見ようと欲せばありありと身通せる貴重な時期がやってきたと私は思います。支配というのは、すなわち政治というのは観念が本質です。支配は観念の支配として脳を操る形でやってきます。見えない大気のように脳を取り巻く観念の秩序は全マスコミ、ジャーナリズムを通して統制されます。人間の卑小性というものは様々な観点でいえるでしょうが、共同観念のなかに埋没させられてしまう卑小性は個々の人間が冷静に粘り強く考えることで乗り越える道筋を思い描くことができます。そして今新聞テレビ雑誌などが総力で作り出そうとしている政治的な共同観念の枠組みを個々の人が超えることができないならば、再びこのような見通しのきく時期を迎えるまでにまた長い霧のなかの年月を過ごさざるを得なくなるような気がします。