われわれは善悪の規準をもつてゐない。われわれの肯定的判断を善と規定し、否定的判断を悪と規定するよりほかない。このとき判断もまた絶対の尺度をもたない。ただ生存の量と質とに依存するだけである。判断を規定するのはわれわれの場であり、言ひうべくんば宿命がそれを決定してゐる。故に宿命に忠実なる判断は必ず肯定をとり、不忠実なる判断は否定をとる。われわれの善悪の規準もまた宿命に依存するだけである。(〈批評の原則についての註〉)

ここで吉本は善悪というものの基準を宿命に求めています。宿命という言葉はあいまいですが、われわれが意識を持つまでにすでに存在しているものが宿命でしょう。意識によって主観的に決定できるものではなく、個々の意識の誕生以前からすでにある関係を宿命と呼んでいると思います。全マスコミがどのような観念を流布しようとも、またそれに対抗してどのような反抗的な観念を形作ろうとも、その正邪、善悪の基準となるのは既にこの世界を形作っている関係です。主観的なものを排して客観的な実在を追及する化学者としての吉本の生い立ちと、主観的な倫理性を極度に追求しようとする文学の徒としての吉本の資質とがこうした思考のなかでふたつの蛇のように絡み合っているように思えます。

おまけです。

詩篇『「さよなら」の椅子』(1984)より    吉本隆明

詩は書くことが
いっぱいあるから
書くんじゃない
書くこと 感じること
なんにもないからこそ書くんだ