倫理とは言はば存在することのなかにある核の如きものである。願望とか、愛とか、美とか、要するに人間性の現実化に伴ふ、精神作用の収斂点に存在するあるものである。ここであるものと呼ぶのは、それが人間の存在と共にあり、しかも規定され得ない、しかも(しかるが故に)人間の存在を除外するのでなくては、除外されないものであるからである。それは言ひかへれば人間の存在が喚起する核である。(形而上学ニツイテノNOTE)

吉本にとっての倫理という概念は独特です。普通倫理というと道徳的なことを意味するでしょう。道徳とは社会的な行動における善悪を指すわけです。しかし吉本にとっての倫理とは善悪自体ではなく、善悪という価値観が生じる人間の精神の必然性を指していると思います。善悪だけでなく、ここで言われている愛、美などの人間だけが観念として生み出す価値概念や精神性というものを、善悪、愛、美とは何かというその概念の中に入って、その概念を前提にして考えるのではなく、そもそもそうした観念を生み出してしまう人間だけの必然性とは何だろうと問う問題意識だということです。
その人間だけの必然性を、精神作用の収斂点に存在するあるものとか、人間の存在と共にあり、しかも規定され得ない、しかも人間の存在を除外するのでなくては、除外されないもの。人間の存在が喚起する核、などといろんな言い方で言い当てようとしています。人間だけが他の生命体と異なり観念や言語を生み出すのはどういうわけか。なぜ観念や言語を人間だけが生み出すのか。観念や言語を生み出す心というのは、他の生命体の心とどこが違うのだろうか。それは難問だけど、それがわからないならば、観念としての善悪や愛、美といった様々な精神内容も、言語とは何かも根本のところではわからないものになる。それは我慢がならない、それが吉本のこだわりです。
この問題に対する吉本の追求は理論的には「言語にとって美とは何か」と「心的現象論」の言語と心的現象の本質論に展開されています。しかしこの問題はいろいろな入り口から入ることができます。宗教から入っても文学から入ってもサブカルチャーから入っても日常生活から入っても政治経済から入っても、本質的に追求していくと必ずぶつかってしまう難問といえます。いったいにんげんって何だろう、ということです。なんでしょう?にんげんって。
私が好きなのは吉本の講演CDで聴いたサルと人間の分かれ道のような段階の話です。人間は進化の過程で猿になっていく種族と分岐して人間になっていったとします。すると人間になっていったサルと猿になっていったサル(の先祖)とはどこが違ったのか。吉本は人間になっていったサルは性の対象としての異性のサルを限定して選んだという言い方をしています。その場その場で異性を選ぶということは他のサルでも、あるいは他の動物でもするでしょう。しかし強烈にあるメス猿(あるいはオス猿)を選ぶということは動物はしない。その性の対象を強烈に選択するということは、人間(の祖先)が動物から離脱していく決定的な契機だったのではないか、ということです。
この話しの中で吉本は人間的な精神の始まりと、解剖学者の三木成夫の人間が精神的なことを行うときは必ず息を詰めるものだという発見を関連付けています。息を詰めることなしに人間の精神的な行為は行われないという普遍性の発見を、吉本は驚くべき発見だと賞賛しています。三木成夫の発見が正しいとすれば、人間がサルから人間になるときに、現在では考えられないほどの強烈で苦しい息を詰める経験を経てきていることになります。今では恋人や結婚相手を選ぶのも、言葉を発するのも当たり前のように考えられていますが、人間の種としての初源に遡れば、想像を絶するような身心の苦しさ、怖さ、不安を死にもの狂いで乗り越えてきた内面的段階を想定することができます。言い換えればそうした苦しさ、怖さ、ポルソナーレの概念でいえば心停止の不安、といったものが人間の精神性の初源であり根底であると考えることができます。
もしこの強烈な選択を行うことの苦しさ、自然的な身体と離れること、不安といったものが人間存在の台座に普遍的にあるとすれば、それが精神病理と呼ばれるものの真に普遍的な根底ではないかと吉本は言っています。これは極端な言い方をすれば、人間という存在そのものが精神病の根源だということです。これもひとつの吉本的な概念での倫理というものへの考えの入り口のひとつです。
話を戻しますと、なぜかは知りませんがこの息を詰める精神性の始まりに耐えたサルが人間になっていき、耐えられなかった、あるいは耐える気がさらさらなかったサルが現在の猿になっていったと考えることができます。私が吉本のこの話しに惹きつけられるのは、人間の始まりを道具を使うようになったとか、火を発見したとか、集団生活の必要からとかいう説明でなく、性としての人間というところから追求しているところです。性としての存在というのは、いわば生命とともに始まる根源性です。だからもし人間というものを性というところから根源的に規定することができるならば、人間は個としての存在の奥深い根拠を獲得できます。性としての在り方、つまりあらゆる人間がその人生の深部で苦労し、時に生涯を賭け、また欲望に苦しむ、あるいは幸福に包まれる、そういう個の実存的なリアルなあり方を世界の始まりと関連付けることができます。
人間の精神の根底には息を詰める恐怖があるという見解と、人間の精神の始まりは性としての誰もが思い描くことの出来る普遍性のうちにあるという見解は、いつも考えが広がっていくような思想の解放感を与えてくれます。