人間が存在し、しかもこの核が存在自体と衝突する状態、これは虚無と呼ばれる。それ故虚無はポジティヴな意味でも規定することが出来る。これは後に論じられよう。倫理はそれ故何ら道徳的なものを意味しない。道徳的なものを倫理的と呼ぶのは悪しき俗化と言ふことが出来る。(形而上学ニツイテノNOTE)

核が存在自体と衝突する状態、という言い方はわかりにくいですが、たとえばあることが正しいとか正しくないとか言われているなかで、そもそも正しいとか善悪という価値を生み出すものは何かというような問題意識を抱くとします。するとここで言うような核、つまり人間的なものをたえず喚起するもの、を考えることになります。このことは現象的な善悪の論議の外に意識したものを連れ出してしまいます。そういうことを虚無と言っているのではないでしょうか。もっと難しいことを言っているのかもしれませんが、私には理解できません。
善悪の外に連れ出され、そこで生じる人間の根源の問題に執着すると、道徳的なものの押し付けは不快に感じられます。それは根底があやふやなものを絶対のように押し付けるからです。特にマスコミを使って特定の個人や集団を標的に攻撃させる道徳的な非難には腹
が立ちます。にんげんってものをなめんなよ、俺たちはそんな神経症的な世間の実相も知らないような善悪の基準で引きずりまわされるような羊の群れじゃねえんだ、って感じですか。


おまけです。

「ひきこもれ」(2002)より              吉本隆明

なぜリハビリなんかしているのかというと、本当はよくわかりません。
ひとつだけ理由が考えられるとしたら、それは「自然に死ぬ」ためではないかと思うんです。