愛は酔ふことが出来るものですが、憎悪は人を覚まします。(〈少年と少女へのノート〉)

この愛とか憎悪とかは誰に対して言っているのか。恋人とか友人のような一対一の関係について言っているのか。あるいは社会的な関係で政府とか政治集団について言っているのか。おそらく社会的な関係における愛とか憎悪とかを言っていると思います。
初期ノートというのは発表のあてもなく書かれた吉本の20代の手記です。普通ならそんな日記のようなものには、恋の悩みだの職場の愚痴だの家族の葛藤だのが生々しく書かれていそうなものです。しかし異様なほど初期ノートには抽象化された思考の跡だけが書かれています。いったいこれは何でしょう。
吉本が対幻想とか共同幻想という概念を使い観念の世界を分析したのはもっと後年の共同幻想論においてです。しかしその発想はすでに初期ノートの頃からあったのではないかと思います。生々しい苦しみは一対一の関係の世界からやってきます。なぜなら男女の性愛を根底とする一対一の世界は、相手が同性であれ異性であれ、自分自身の全存在を相手の中に見ようとする全身全霊を投入しうる世界だからだと思います。それは生存の根拠を賭けることの可能な世界。惚れこんだら命がけ、の世界です。その相手を失うことが、自分自身を失うことと等価に感じられる、まわりから見れば気の狂ったような思い入れの世界。なんであんなオトコ(オンナ)がと、まわりが呆れても、当人には急流に落ちたようにそうするしかない。進化の途上での人間の、サルとは分岐した異様な選択という能力の果ての世界です。あなたもよく分かるでしょ(ー_ー ) 吉本がその切実さ、苦しさを知らないはずはない。しかしそれを生々しく書かないというのは、その一対一の世界が希薄だからでもなく、記述する価値がない世界だと見下しているからでもない。では何故なのか。
それは書いても表現しきれないのだということが分かっているからではないでしょうか。書くということはあるがままの対象を小さく限定することです。書かないという選択が対象の豊かさ切実さを守るということもあります。何を書くかよりも、何を書かないかのほうが重要なこともあると思います。だったら読むほうも、何が書かれなかったかを感じることが重要だということもあるわけです。吉本は多くの文章を書いていますが、書かれていない、書くことをためらったことが山盛りあるはずです。しかしそれは書かれた思考や文体のなかににじみ出るわけです。それを読むことが本当に読むことだと思います。
では吉本にとってあまり生々しく書くことのなかった一対一の世界、男女の世界や友情の葛藤の世界や親子の世界はどのようなものだったのか。特に一対一の世界の根底であると吉本が考えている男女の恋愛の世界では、吉本は友人の奥さんを奪って結婚するという不倫の恋愛をしています。だから吉本はいわゆる恋愛の修羅場というものを体験的に知っています。
それを踏まえて吉本は、恋愛とは論じるものではなくするものでしょう、と言っています。
またたとえトルストイの「アンナ・カレーニナ」のような恋愛を描いた世界文学の一級品をもってしても、今恋愛真っ最中の人間にとっては現実の恋愛の方が大きいとも言っています。こういう人生に対する感覚、つまり書いても表現しきれないし、第一級の文学作品をもってしても真っ最中の人間を振り向かせることはできないような、全身全霊で突っ込んでいくような場面が人間には普遍的にある。だからそれはするしかないので、論じるものではないし、論じるときにはよくそのことが分かった上で論じるものだという感覚が吉本にあるのだと思います。その鋭い感覚が吉本の書く世界を狭め、深めているとも言えます。
ではこの初期ノートの愛とか憎悪とかは何を対象にしているのか。愛とは一体感を感じることで、憎悪は対象との差異を意識することで、一度は一体感を感じた対象ほど憎悪は深いものだとすると、吉本のここで言っている憎悪は一度は信じ、一体感を感じた戦時中のイデオロギーや戦後の思想なのだと思います。「視えない関係が視えはじめたとき、彼らは深く決別している」という吉本の詩句がありますが、吉本の思考が目には見えない社会構造や思想の論理を明らかにしていく過程で、かっては信じ期待を寄せ連帯を感じていた社会的な集団や個人との訣別が繰り返されていったのだと思います。そして吉本が孤独に耐えるほどに吉本を読んで深く共感する読者も増えていったと思います。そういう逆説はどうにもならないもので、本当の連帯というのは孤独に耐えるやつ同士のペンギンのように勝手な方向を向いたもの同士の間にしか成り立たないのかもしれません。
愛だの恋だの友情だのというものは、大勢相手にくっちゃべるものでもなく、ワイドショーのようにガヤガヤ取り巻いて分かったつもりになるものでもなく、ただ命がけでするものだという吉本の考えが私は好きです。