夢は破れる。あたかも一角からくづれてゆく意識なのだが、くづれてゆく部分ごとに悔恨に変じていつた。(夕ぐれと夜との独白)

この文章からはどんな夢がどのように破れたかは分かりませんが、いずれにせよ痛切な体験によって起こった自分の心の推移を、化学実験の報告文のような観察力で書くところに吉本の特長があらわれていると思います。痛切さという血の通ったものと、普遍性に至ろうという冷静な思考と観察の粘り強さが絡み合うように延びていくのが吉本の文体です。より普遍性のほうに徹底した表現は心的現象論のような理論書になっていくとすれば、より血の通った痛切さのほうを解放した表現は詩や作家論になっていったと考えられます。
私は吉本の作家論が好きです。なんど読んでも面白い。吉本は普遍的な抽象理論の構築を第一義と考えていて、作家論は批評家にとって快楽であるがゆえにあえて書くのを我慢していたと思いますが、それでもかなりの数の作家論や人物論が書かれています。なんで吉本の作家論が面白いかというと、対象の作家と吉本自身の二人だけが作り上げていく世界という濃密さがあるからです。外野を意識することも背後のご主人に気兼ねすることもない二人だけのサシの世界です。吉本が対象の作家とふたりだけで差し向かい、吉本が自分自身を徹底的にさらけ出しながら、作家から語られる言葉を粘り強く聴いていくという姿を彷彿とさせます。自分を隠しながらインタビューするのではない、自分を棚に上げて安全地帯にいながら単なる理論的な解剖や知的な整理を行うのでもない、自分の思いいれだけをぶつけて相手を自分勝手なイメージで塗り上げるのでもない。自分自身をまず斬らなければ、相手を斬ることはできないことを知っている姿です。たとえどんなに対立し否定する場合でも、相手への批判や否定は自分自身への批判や否定で自分を斬った刀でおこなわれています。
吉本の作家論であれ人物論であれ、あるいは対談であれ、そこには濃密な二人だけの世界の中で吉本自身のありのままの姿と相手の姿があらわれてきます。それは単なる知的な人物同士というものではなく、抽象的な観念から生身の肉体まで、社会の全体像から日常的な立ち居振る舞いまで、幼少の時期から現在の状況までまるごと絡み合った人間の姿です。露骨に書かれていなくても、それはイメージとして伝わってきます。これに対してつまらない批評とか論議というものがなんでつまらないかと言えば要するに自分がないからです。どのように生まれ育ち、どんなことを体験してきて、今どんな生活になっていて、なにがゆえにそのことを言っているのか、アンタ何が言いたいのかしたいのか、ということが不透明で濁っていてリアルさがないからです。それはすぐ分かる。だから聞いていて話していてつまらない。明日は選挙ですが、この日本の将来を決定づける歴史的な重要性を恐れるようにテレビやマスコミはそんなつまらない顔ばかりの濁った河のようになってしまっています。
吉本という人は長い孤独の時間の塔のようなものです。自分ひとりで引き篭もって、自分の思考を自分で幾度も否定し、自分の思考を幾度も乗り越え、誰が批判するよりも厳しく自分の思考や感性を批判してきたと思います。その孤独さと苦しさが陥っていく病理を避けるために、大衆的な常民的な生活、多くの人々が体験する平凡な社会と人生の地面に自分を置き続けたと思います。だから吉本の孤独な時間の塔にはいくつもの窓が開いていて、外気が吹き込み、外界と繋がっています。もしも吉本に引き篭もりの孤独な時間がなかったら、人や社会がこんなに見えることはなかったと思います。吉本に限らず魅力のある作家でも人物でも、その魅力の源泉になっているのは引き篭もらざるをえなかった孤独な時間なんだと私は思います。そしてその孤独さ、引き篭もりというものにどのように窓を開けたかということではないでしょうか。それが思想というものだと思います。