人間は自らに出会ったとき同時に時間といふものの構造に出会ふ。(原理の照明)

時間というのは分かりやすくいえば、自分のなかの因果です。なんで俺はこうなんだろう。なんであたしはこうなっちゃうんだろう。その因果だと思います。その因果の奥底には意識の発生以前の胎内や幼児期の時間があります。自らに出会うというのは、その奥底の資質がとうとう分かった、というか諦めたというか、逃げようがねえというか、そういう時を意味していると思います。すると自分という人には分かってもらいようもない世界でただひとつの因果の構造も視えるのでしょう。視たくなかろうとも。あとはつきあっていくしかありません。できることからコツコツと。どっかにいいところがあるならば、それを消さずに生きたいと私は思います。

おまけ。これは吉本のお姉さんが亡くなった時の文章です。書いたのは24歳くらい。少し長いですが、大変好きな文章なので読んでみてください。

「姉の死」              吉本隆明
無類に哀切な死を描き得るものは、無類に冷静な心だけである。転倒した悲嘆の心では如何にしても死の切実さは描き得ない。是のことは書くといふ状態に付き纏ふ逆説的な宿命である。僕には恐らく姉の死を描くことは出来ないし、況して骨髄に感得することなど出来はしまい。
姉は哀しもうとすれば無限に哀しいような状態で死んだ。一月十三日既に危ない病状を悟って電報を寄せた。母に看護を頼んだのだ。
その夜病勢が革まり、母が翌朝駆け付けた時には最早空しかった。氷雨の降る夜、母の面影を追って唯独り暗い多摩の連丘を見ようとしてゐたのかも知れぬ。僕にはもう判らぬのだ。だが判らぬままに、悲しみとも憤りとも付かぬ強く確かな感じが僕をおしつけて来る、近親の者が死んだとき必ず僕にやって来るあの感じが、昔はその感じに抵抗し、藻掻いた、けれど今はそれに押し流されるままでじつとしてゐる。僕の心の鐘が曇ったのかも知れぬ、或はそうでないのかも知れぬ。
僕は十四日姉の相にもう一眼会ひたくて多摩の小道を歩んでいた、丘辺の療養所の赤屋根が、樹々の陰にちらちらする頃氷雨が上がり落日が血のやうに赤く雲の裂け目を染めてゐた。突然明日は晴れるに違ひないといふ意識がやつて来て、この天候がもう一日早かつたら姉は死なずに済んだのにと思った、何故そう思つたのか今でも判らぬ、けれど確かに僕は信じたのだ。薄く化粧はしてゐた姉は美しかった、清潔であった、僕が想像し、そして最後の訣れがしたいと欲してゐたその面影よりは隔絶して美しかった。僕は大層安らかな心になった。僕が姉の死について書き得る、今はこれが全てである。
姉の短歌は丁度これから腰を据ゑようとしてゐた時期にあつた、哀しいと言はなくてはならぬ、僕と異つて素直で美しい心情であつた姉は、自らに固有な不幸を胸中に温めて、その性来を徐々に磨いていつた、随分苦しんだが、如何なる空想も思想も案出しようとはしなかつた、常に己の現実に即して思考したと言へようか、丁度短歌の発想がそうであるやうに。僕は確信を以て指摘する訳にはいかないが、短歌こそ姉の熱愛し得た唯一の表現形式であつたと思ふ、僕が詩稿の空白に書き散らした短歌を時折二つ三つと送ると、まるで知己を得たように喜んでゐたがいまはもう全てが空しくなつた。
姉が心臓の疲弊で苦しんでゐた頃、僕は二、三日前読んだマルセル・プルーストの一節を心の中で繰返したりしてゐた、何といふ不様なことだらう、僕には幸福とも不幸とも思へぬ平凡な家庭を、姉は死ぬ程恋しがつてゐた、何とゐふ相違だらう、やがて姉の死と同時に、あれ程深い印象を刻んでいたプルーストの「失ふし時をもとめて」のカデンツアが僕の心から遠退いていつた。姉の死が代わって僕を領したからだ、人は語り得る部分よりも沈黙のうちに守ってゐる部分を遥かに多く蔵つてゐる、殊に他人より一層そのやうであつた姉のために、僕がこれだけ語る機会を得たのは慰む思ひがする、服部忠氏の御好意がなかつたら姉は肉親の思ひのうちに生きつづけるだけだつたらう。
やがて姉は長い長い間の願ひであつた懐かしい我家に骨になつて帰宅した。

   「龍」 昭和二十三年新年号 〔最後の歌〕
                          吉本政枝

遠くより雨をともなひ来る雲のここに至りてためらひ長き

夕星の輝きそめし外にたちて別れの言葉短く言ひぬ

一ひらの雲もとどめぬ天にむき嘆かふものか直眼をぞ欲り