〈精神的存在はただ時間によつてのみ変化するが、物体的存在は時間と空間とによつて変化する。(アウグステイヌ)〉(断想Ⅵ)

これは吉本ではなくアウグスティヌスの言葉なので、アウグスティヌスの著作も読んだことのない私にはアウグスティヌスの思想は分かりません。吉本自身の時間と空間の考え方としては心的現象論の序説に出てくる時間化度と空間化度という概念を思い出します。これは心という目に見えないあいまいな領域をどう考察するかという出発にあたって吉本が設定した概念です。
まず心というものの発生を考えます。心自体はどのように生まれるか。それは人間の肉体がなければ生まれようがないわけです。人間の肉体を生命体、あるいは有機体と考えると、その生命体、有機体が無機的な世界と触れ合って、有機体である自らとの異和を感じる。命あるものの命のない世界との異和が、心というものの発生の根源にあると吉本は発想していると思います。したがってこの異和は人間だけのものと考えることはできないので、生命体であればアメーバから人間まで、ただ生命体であるという理由で無機的な世界との異和を持つと考えます。
すると生命体はその無機的世界との異和を、心の基底の領域として疎外すると考えます。この疎外された異和の領域を原生的疎外と吉本は名づけます。原生的な疎外の領域は身体という自然とも、身体の外部の自然にも還元できない領域です。この原生的疎外の領域は身体という自然と外界という自然から疎外された領域であるために、身体と外界の双方に対して開いている領域だと考えることができます。そして吉本は原生的疎外の領域を考える基軸として、身体から疎外されたものとしてみられる心的領域の構造を時間性によって、また外界、あるいは現実的な環界から疎外されたものとしてみられる心的領域の構造を空間性として位置づけるという概念の設定を行うわけです。
空間というものはだから環境なんだと思います。社会とか他者とか天然自然とかそういう環境は空間性とみなすことができます。その環境への人間の働きかけがあって、人間の環境に向かって開いた感覚器官によって空間性は取り入れられ、心の一面を形成します。しかしもうひとつ人間の心には人間の身体から湧き上がるもの、あるいは拒絶されるもの、あるいは欲望されるものというように身体に向かって開いている一面があります。それを時間と呼んでいるのだと思います。その時間性によって位置づけられる身体性の根源は内臓諸器官なんだと思います。それは吉本が後年三木成夫の解剖学に出会って確信した考え方になります。つまり内臓と結びついたいわば闇深い、盲目の、滲みこむような心の側面があって、それが感覚器官を通してやってくる空間性と絡み合って心や心の表現を形作ると考えているのだと思います。
その内臓から来るものというものが文学とか芸術の本質だと吉本は考えていると思います。外界に向いた感覚的なものではなく、その感覚的なものがどう内臓的なものと結びつくかが本質なのだという考えではないでしょうか。感覚的な面が吸収してくる広がりを知識に翻訳したものを知的な世界と考えると、人間の心には知的な世界に疑惑を抱いたり、空しさを感じたり、拒絶をしたりする心の側面があると思われます。それもまた内臓からやってくる時間性の吸引力なのではないでしょうか。
そして心が病んでにっちもさっちもいかなくなると、内臓からくる世界は支配力を増してくるように思われます。内臓の闇に向かっている世界を心とみなすと、心の病んだ世界は感覚的な空間性の世界を深い内臓的な時間性の世界で覆っていくような気がします。そして最後には空間性の一切を時間性が覆う世界が到来するのではないでしょうか。