人間が何を為すべきかといふことに答へることは不可能だ。人間の為しうることは限定されてゐる。限定された仕事に普遍的な意味を与へうるのは、彼の精神の決定よりほかない。この決定にすべての意味がある。この決定は判断であり、実践ではない。実践とは、常に単純な仕事の連続である。(断想Ⅶ)

精神の決定とは、考え選択することです。選択したら実行、あるいは実践するわけですが、それは手足を動かして行為することだということになります。手足を動かして行う行為、あるいは実践はだから実は単純な仕事の連続だ、というのが吉本の透徹した見方です。これは政治的な実践、つまりデモをしたりポスターを貼ったり演説をしたりということに過大な意味を与えたい活動家の横行する時代のなかで言われていることに意味があります。

おまけです。

「全著作集のためのあとがき」          吉本隆明
(略)
はじめに、けわしい山に挑むつもりで、岩場に足をかけた。すこし登ったところで、雨露をしのぐだけの空間が見つかったので、テントを張って小休止した。それが本書(心的現象論序説)であるような気がする。そのあとすぐに、また登りはじめた。最初の装備が悪かったかどうか、自問するいとまもないくらいである。あの装備じゃあはじめから駄目だよ、という声と、あの装備で登高しなくてはならないんだから、気の毒だなあ、という声は、すでに聞こえてきたような気がする。けれど、本人にはひき返す余裕もなければ、その気もない。ただ、ゆくだけである。誰だって、足場が崩れたり、天候が激しかったりすれば、途中からひき返すかもしれないし、そのまま立往生ということになるにちがいない。そんなことを気にしていても仕方がないのだ。また、装備が貧弱であるかどうかも、問題にする訳にはいかない。発注した立派な装備が届かないうちは、登る気がしないというのは、いつも、わたしには無縁な世界の通念に属している。それに、わが国の知的な通念では、この世界には、こんなに立派な装備がある、と陳列してくれる人物は、けっしてじぶんで登ったり、登高者に力を貸したりしないものである。どんなことも、知的な孤独を体験しないで、できることなどない。
(略)