憎悪はこれを訂正することができるが、且て愛したものを愛しなくなることは出来ない。このことは憎悪が偶然的なものに支配されるのに反し、愛は必然的なもの(生理的なもの)に支配されることに由因する。(断想Ⅵ)

愛というのは基本的にひとりの人間とひとりの人間のあいだに生まれるものだと思います。人間が人生の最初に受け取る愛は母親からの愛でしょう。乳児にとっての母親はまだ対象的に母親とは認識されていないと思います。したがって乳児期の母親は乳児にとっての全世界に匹敵するものだと思います。自分を守り、飢えを充たし、不快さを拭ってくれ、安心を与えてくれる、唯一すがりつける命のきずなのようなものが母親です。その乳児期のこころは言語にならないし、無意識の底にしまわれて再び意識的に取り出すことは極めて難しいものになると思います。母親にとってみれば、わが子は自分の男との性愛の結果としてわが腹で育て出産する自らの分身のような存在です。また乳児期の前にはわが腹で子を育む胎児期があり、胎児期のなかで母体である母親と胎児である子との言語以前のコミュニケーションが存在すると吉本は考えています。愛という概念は言葉の概念である以前に、この非言語的なコミュニケーションを介して母から子に伝わるものだと考えることができます。
胎児、乳児というものは圧倒的に生理的に存在しています。つまりおっぱいを飲み、うんこおしっこをし、眠る。生理的な不快さで泣き、生理的な満足で笑う。生理的なものが生活だというように過ごします。この手のかかる大変な子育てという時期を支えるのは、母親のわが身の分身であると感じる生理的な強烈な愛着しかありえないのではないでしょうか。きわめて生理的な存在である赤ん坊を、きわめて生理的な根拠から愛着を傾けて母親が育てる。その中で観念領域というどこにも空間としては存在しない領域のなかで、非言語的なコミュニケーションが次第に言語によるコミュニケーションに移っていくのだと思います。この誰もが初源に普遍的にもち、誰もが忘れ去る時期の意味の巨大さというものが人間とか人類史というものの謎の根底をなすと考えます。
吉本の初期ノートの文章は、ひとりの人間とひとりの人間の関係というものを考察し、後に対幻想という概念を生み出す考察の始まりにあたります。一対一の関係においては人間は性としてしか存在できない。つまり男性、女性という性としてあらわれるということです。それは生理的な存在であることをまぬがれないということであると思います。生理的な存在ということは動物と共通ですから、ひとりの人間とひとりの人間が性としての人間として関係する世界は観念の世界であると同時に、動物的な次元をおおく含む世界なのだと思います。したがってその一対一の世界は人間が動物的な本能の強烈さと、観念領域に非言語的なコミュニケーションを土台にして形成された観念とが激突しあうもっとも苦しい世界であると考えます。なぜ母親との関係というものに心が歪むほど苦しめられるのか、また母親はわが子に対する関係を老いて死に近づくまで執着し苦しむのか。また男女の恋愛とか夫婦という関係はなぜこんなに人生を振り回し、支配するのか。それはひとりとひとりの関係のなかで、私たちが動物である生理的なものと、人間である観念的なものが激突するからなのだと思われます。
生きていくための卑小性ともいえる社会生活における金の苦労を別にすれば、親子の愛憎、夫婦の愛憎、男女の愛憎という一対一の性の世界が浮世の苦の大きな部分を占めています。だからもし社会がましになり、政治的に戦争とか重税とか貧困とか差別とかの問題がおおかた解決される社会が到来したとしても、ひとりとひとりの性の世界の愛憎の苦が解消されるわけではないと思います。ではその苦、またそれが生み出す様々な精神障害の問題はどのように取り組めばいいのでしょうか。それは簡単にはいかないので、胎児期からの人間が観念的な存在であることの根源と、人間というものが三木成夫の考察したように人間的でもあり動物的でもあり植物的でもあり無生物的でもあるという重層性を関連付けながら解いていくということになるのではないでしょうか。対症療法的なさまざまな薬物や療法は対症療法的に有効な部分もありましょうが、苦の根源に届くにはいっぽうで哲学的ともいえるような迂遠な考察の積み重ねがどうしても必要だと考えます。そんなめんどくさいことを担うような損な生まれつきとしか言いようのない人格はそんなにいない。吉本隆明は私たちが共有できる、苦の根源に挑める稀な思想家なのだと思います。いずれ吉本の人生の終わりはやってくる。しかし吉本の思想は書物として残ります。私たちの共有物として。目に見えない宝庫としてです。