人間は生存するために卑小(ひしょう)でなければならない。そうして卑小性はぼくたちが歴史的に背負つてきた条件だ。僕らは時間を過去から切断し得ない限り、この卑小性を切断することは出来ない。そしてそれは不可能だ。(断想Ⅵ)

なにを卑小性といっているかよく分かりませんが、この社会の支配の秩序のどこかに組み込まれて、そこで金を稼ぎ、その秩序の感性に飼いならされていくような必然性を言っているのではないでしょうか。先祖代々政府や幕府や領主や地主の下で、生きるために働き税や年貢を取られ、支配秩序を受け入れて慣れ親しんで生きるしかなかったわけですから、そういう過去は切断しようがないということです。秩序から痛めつけられても、秩序に不服でも、秩序を日々支えて生きるしかないという大衆の存在のありようを自分もその一員である近親嫌悪と自己嫌悪で吉本はとらえています。ここまでなら知的な世界の入り口で誰もが考えそうなことです。しかしそこから吉本は大衆という概念を独自に掘り下げていきます。それは知というものの外側にあって価値が収斂していかざるをえない普遍的な人間のありようという概念としての大衆です。それは遥かな始源と遠い射程をもつ吉本の見事な社会思想だと思います。

おまけです。毛色の変わったところで吉本が東洋インキ製造株式会社の社員として働いていた頃の化学技術論文の序論のところだけを引用します。だいたい30歳ころの仕事だと思います。書いてあることは私にもちんぷんかんぷんですが、吉本という人はこういう分野が専門でこうした修練がある人なのだということが直感的に分かります。いわゆる文学青年とは異質の人です。

「一酸化鉛結晶の生成過程における色の問題」
              東洋インキ製造株式会社  吉本隆明

序論
水酸化鉛醋酸鉛等を特定の金属の水酸化物と水溶液で反応させると、一般に一酸化鉛の比較的大きな結晶を生成するが、この際、生成した一酸化鉛が種々の色相を呈する原因は次の二つに分類することが出来る。
(Ⅰ)結晶構造の差異による色相の差異。
(Ⅱ)結晶生成過程を異にするために生ずる色相の差異。
一酸化鉛には常温で安定な赤色変態PbOαと比較的高温で安定な黄色変態Pbβが同質二形として存在していることはよく知られているから(Ⅰ)の原因による一酸化鉛の色相の差異は、発色の原因を原子軌道的に近似してみて分極率の大きな酸素イオンの2p電子の挙動によるものと考えれば、結晶型の差異による結晶場の結合エネルギーの差異から説明することが出来る。又(Ⅱ)の原因による一酸化鉛の色相の差異は、結晶の光学的性質の差異に帰せられるけれど、われわれの実験及び考察からは、(鄯)異質の相の収着。(鄱)結晶生長の方向性の差異。(鄴)結晶集合の際の異質の相の挿入。等によって説明される。
われわれはこの報文で鉛塩と種々の金属水酸化物との湿式反応によって色相を異にした一酸化鉛を製造し、その色相の差異の原因を、(鄯)製造条件の検討(鄱)一酸化鉛の温度一色相図表の定性的検討(鄴)光学顕微鏡による観察(鄽)X線廻析図による考察(酈)発光スペクトル分析による試料純度の検討。などによって考究した。この報文で得られた結論は、全ての無機化合物の結晶変態に基づく色相の差異及び製造条件による色相の小差異に適用し得るものと考えられる。