僕の精神からは希望が消失した。僕はいま無限の単調のうちにある。そして僕が自ら血肉化し得たのは衝動(感情)を知性によつて抑へること。いやむしろ虚無によつて抑圧することであつた。この感覚は言はば論理の錘(おもり)を沈めるようなものであつた。(原理の証明)

なぜ希望が消失した、と言っているかというと、敗戦によってそれまで信じていた軍国主義の思想が完全に破産したのを見たからです。そして戦後になって民主主義や社会主義を提唱しはじめた人たちの主張のなかに、吉本たちが戦争を体験して味わった絶望が充分に込められていないと感じているからです。この世のどこかで、どこかの誰かが、自分が心から納得のいく思想や行動を示してくれるかもしれないという希望が消滅したと思い決めたのだと思います。もう人に頼ることをやめた。だから残されたのは自分でやるだけやってみるしかないということだけです。
吉本の世代は戦争中にやがては若くして死ぬ運命を強いられていました。その戦争死の意識が吉本を追いつめ、なんのためなら死を受け入れることができるかと考え詰めさせたと思います。それは天皇という絶対的な存在のためという結論に至りました。問題はそこまで考え詰めていった過程です。死という重すぎる結末を受け入れるためには、社会的な認識だけでなく情緒や日常的な感性や身内への愛情や、自分の内にある一切合財をすべて注ぎ込める理由でなければ自らの死など受け入れようがなかったと思います。そして自分の魂と身体のすべてを注ぎ込んで戦争死を受け入れ戦争を肯定した。その最中に戦争が突然敗北によって終わったわけです。
敗戦後のしばらくは軍部や天皇が敗戦を受け入れても吉本は受け入れることができなかった。どこかで徹底抗戦の勢力が起これば、そこに参加して死を賭けて戦うという気持ちであったと吉本は書いています。しかしやがて吉本の中に自分の戦争中に考え詰めたことが、世界的な思想の中では誤った偏頗な思考だったのではないかという疑問が生じてきます。しかし頼れる戦後の思想はどこにもない。戦争中の軍部も戦後の日本政府も、占領軍も、戦後になって登場してきた党派や知識人の思想もすべて信じられない。なぜなら吉本には心の底から戦争に打ち込んだ体験があったからです。心の底から信じたものが破産したなら、新たに進む道もまた心の底から納得がいくものでなければならない。思考だけの転向ではなく、情緒も感性も感覚も日常的な世界も身内との交わりも、一切合財が根底から疑われ組みかえられなければならない。その深刻さに答えるものはどこにもなかった。
そういう思いがこの初期ノートの文章の背後にあると思います。この文章のトーンの暗さはどこから来るのかが問題です。もし吉本が自分の戦後の課題としたものが、知とか思考の内部の問題に終始するならそれはそれでいいわけです。未知の前人未到の課題に向かうというのは思考の本来の姿ですから。問題はそういうことを思い決めた人間が、この世間の中をいろいろな人と関わりながら日常的に生活するという過程にあります。それは同じ町内とか同じ職場内とかで触れ合い癒される、あるいは許しあうというか、そういう安らぎが失われていくということです。なぜならそういう日常的な世界を吉本は自分の思想の許しあってはいけない対象として見ているからです。そういう日常の世界の中に通念として共有されているもの、血や肉のように骨身にまとわりついている情緒や思考、それを吉本は自分の身からバリバリと引き剥がして思考の対象としようとしているからです。そうしなければ、戦争が終わったときの自分の欠落と釣り合いが取れないからです。
安らぎがなくなる、つまり同じ考えをもっている、同じ感覚をもっている、そういうほっとするような集団の居心地のよさというものがどんどん吉本から抜け落ちていきます。「そうだよねえ」「そうだろう、まあ一杯いこう」というような共感の世界が遠ざかるということです。そしてそれは日常的な世界の周囲の人たちもなんとなく感じていきます。この人は礼儀正しくちゃんとした人だけれど、なんとなく何を考えているのかわからないところがある、打ち解けきれない、気の置けないの反対の気の置けてしまうところがあると周りの人も思うわけです。それが辛いことです。その辛さや索漠とした孤立感から逃れたくて、知識人や表現者は大学とか文化的なサロンのような知と文化が通用する集団に入りたがるんだと思います。そういう知と文化の集団の中には、日常生活や一般の職場や地域の交わりの中で孤立する苦しさがないからです。
しかし一人の人間の中で知識とか抽象的な思考とか表現とかが生まれでたところは、知識とか思想とかとは縁遠い日常的な繰り返しの世界です。つまり家族の団欒から離れた自分の部屋や、にぎやかな教室から離れた屋上の片隅みたいな日常的な世界の中で沈黙し内攻してしまう個の世界から生まれでたわけです。そして知識や思想が最終的に戻っていく場所も、吉本の考えによればその日常的な繰り返しの世界です。したがって知識や思想は、他の知識や思想に相対していることよりも、もっと本質的なあり方としては、日常的な世界にじかに相対していることだということになります。するとそう思い決めた知識や思想は日常的な世界に取り巻かれて、その中で感じる辛さとか寂しさ、違和感や孤独というもの、溶けこみたくても溶けこめない煩悶というものを抱えることになります。それが吉本の思想の独特の色合いです。また明治以降の優れた文学者のもっていた表現の色合いです。ならばそんなうざったい苦労は捨ててしまって、知識人や文化人の共同体である大学や文壇の内部や芸術家のサロンでなぜ生きようとしなかったのか。それは吉本は一切合財を疑うという戦後に強いられた運命のなかで、疑い得ない思想と感性が最終的に還るところ、価値の収斂するところとして日常的なくりかえしの世界を見出したからです。
知とか思想とかいうものが日常生活の世界の一段上の高みにいない、日常生活の世界と対等というよりも、日常生活の世界の下のほうに身をかがめたような姿でいるというあり方を教えてくれたのは吉本の思想です。なぜなら知とか思想とか表現というものは、本来日常的なくりかえしの大衆的な世界の只中から、その裂け目のなかからはじき出されるように誕生したものだからだと思います。裂け目から誕生した観念の領域が日常の世界に対すると、日常の世界はその重さ、広がり、世界の根である豊かさをもって観念の領域に対峙します。日常的な世界が真に価値の収斂するところになるためには、裂け目から生まれた観念の世界が日常的な世界の大きさを観念として取り込める大きさを獲得しなければならない。そうでなければ多くの大衆が暮らす日常的な繰り返しの世界は、観念の世界を一段上の集団として祭りあげ、無縁に暮らすか支配を受けるかどちらかだという循環を絶つことはできないからです。
現在の世界は富と政治力を独占した階層によるさらに徹底した世界管理、世界支配の方向へ進みつつあると考えます。吉本がその思想の価値を収斂するところとみなした日常的な世界の一般大衆はさらなる被管理、被支配に突き落とされようとしていることになります。それを道義的に怒っても、情緒的に反発してもどうにもならない規模の展開が進んでいくように思います。なぜなら世界を支配する階層には、長く深く積み重ねられた世界支配を可能にする観念の蓄積があるからです。それは一国の支配や植民地支配や国際的な企業展開や金融操作によって積み重ねられてきた支配者の支配の知的な力量です。吉本の自立という概念は、そうした支配の強大さをいつか超えていくという構想によって作られていたと思います。