「人間には確かに語らない部分がある。人間が精神と呼んでゐるものは、恐らくはその語らない部分から成り立ってゐる。」(原理の照明)

これは言葉について語っています。吉本は言葉、あるいは言語をそれが発せられた結果としての文章や録音されたしゃべり言葉だけで捉えるのではなく、言葉がひとりの人間の内から生まれようとする場面で捉えようとします。これがそれ以前の言語論と吉本の「言語にとって美とはなにか」に結晶した言語論を分ける根本的な違いだと思います。

ひとりの人間の内から言葉が生まれようとする場面を考えると、言葉が生まれて自分以外の人間に届くこともあれば、自分にしか分からないようにつぶやくこともあるし、言葉になされずに沈黙したまま胸の中で言うこともあります。あるいははっきりとした言葉にならる以前の、胸の中の泡立ちとかしこりとか波立ちというような状態でとどまることもあります。吉本はこれらも言葉として包括して捉えようとします。

たとえば親しい人が突然亡くなった報せを受けてお通夜に駆けつけたとします。遺族の方を前に胸の中の思いがすべて語られるわけではないでしょう。ご愁傷様でした、というような言葉がでるだけです。しかし胸の中には言葉や言葉になる以前の形のないざわめきのようなものが充ちています。その胸の中に秘めて伝えることのできなかったものもやはり言葉であると考え、しかもその沈黙の言葉こそ言葉の本質ではないかとみなすわけです。

言い方を変えると、言葉はコミュニケーションとして使われる場面があります。これは言葉がひとりの人間から発せられ、文章やしゃべり言葉となって他の人間に伝わる場面です。通常は言葉はこのコミュニケーションの道具と考えられています。これと対極にある言葉としてディスコミュニケーションの言葉を考えます。ディスコミュニケーションの言葉(非伝達の言葉)は他への伝達を目指さないで自分自身に戻ってきます。だから自分が自分と語り合うような言葉だといえましょう。じっと考え込んでいたり、胸の想いが言葉になるのを探し求めていたりする時、ディスコミュニケーションの言葉のうちにいると考えられます。

初期ノートの文章の精神という言葉は、自分が自分と果てしなく問いかけて答えるという自己対話の繰り返しで深まっていく考えや感覚のことだと思います。これは文章の推敲に似ているわけです。精神が自分との対話の領域のことだとすればディスコミュニケーションとしての言葉の領域が精神の領域だと考えられます。

人はみなコミュニケーションとしての言葉を使います。それなくして生活は困難であるからです。そして最もコミュニケーションとしての言葉を使い熟達しているのは、知識人やジャーナリズムの人たちといえるでしょう。コミュニケーションとしての言葉を書き、公表している職業人たちです。それに比べれば一般大衆はしゃべり言葉くらいでしかコミュニケーションとしての言葉を使いません。したがって一般大衆の言葉は知の世界やマスコミの世界に登場することなく日常生活の中で発せられ、また日常生活の中に戻っていきます。さらに一般大衆のディスコミュニケーションの言葉を考えると、それは文学のディスコミュニケーションの言葉のように推敲の結果、紙に記述されることもなく大衆ひとりひとりの胸の中に戻っていくでしょう。

すると大衆のディスコミュニケーションの言葉、つまり大衆の精神は見えないわけです。この活字として読むこともできず、録音として残ることもなく、コミュニケーションとしての主としてしゃべり言葉を収集しても見ることのできない大衆の沈黙の言語を吉本は最も重要な思想の柱としています。その聞こえない言葉を聴くことが真に世界を知ることだとみなしています。

どのようにして沈黙の言葉を聴くか、それは自分自身のディスコミュニケーションの言葉を聴くことで聴くしかありません。おおむね知識人もジャーナリストも政治家や官僚といった知の世界に属する人たちはコミュニケーションとしての言葉の領域の中で生き死にします。大衆について語るときも大衆についてのコミュニケーションの言葉の範囲で語ります。そして精神というようなものは知識人や芸術家だけが持つもののように語られます。

古代思想として今も影響を残す世界宗教の思想の、特に初期のいわゆる教祖が直接に語った思想には、大衆の沈黙である大衆の精神に響く言葉があるのだと思います。吉本の思想もディスコミュニケーションを本質とする巨きな規模の思想です。