この鎖国されてゐる国。永久に僕らは孤立文化の跛行から逃れられないのだらうか。(断章Ⅰ)

私が少しだけ習い覚えてきた外国、特に欧米というのは単に文化的なものにすぎなかったと最近つくづく思います。本とか映画とか音楽とか観光旅行程度の旅の知識で作り上げた欧米です。しかし本当に社会を動かしていく労働とか産業とか金融とか政治というものとしての欧米、あるいは諸外国というものをほとんど知らないに等しいです。もちろん日本についていも自分の属する業界以外は知らないに等しい。現在の世界不況、あるいは世界恐慌の前触れのような状勢は、やっと私のような凡庸な人間にも世界というものを根幹から動かす、文化の香りなどしない殺伐とした弱肉強食の社会としての世界というものを実感として感じさせ、見つめるのに慣れさせてくれた面があります。こうして酷い目に会いながららしか孤立文化の跛行というものから逃れるしかないのかもしれません。


おまけです。
親鸞論註」              吉本隆明
わたしたちは主観がじぶんによって世界を制約すること、またその到達できる範囲もはじめから局限されていることをすでに知っている。また主観的な認識はどんな対象でも選ぶことができるが、それもまた局限された認識の総和だから局限されたものだと感じている。こういう制約は一般的には、制約の線上に対立するふたつの概念が貌をあらわすことでたやすく知ることができる。善か悪か、有効か無効か、肯定か否定か、利益か不利益か等々のように。このようにしてさらにふたつの対立は疎外された第三者(世界)あるいは第三者(世界)という疎外を生みだしてくる。これがどんな賢そうな貌をしても世界が認識の制約としてやってくる証拠であることは論をまたない。こういう認識の制約は宗教、理念、党派等々の共同性では、内部と外部という対立としてやってくる。そしてこのふたつの対立は内部でも外部でもない疎外された第三の領域を提起する。
(略)