「僕に対する批評(悪評)はいつも僕のゐないところでなされる。僕はそれをよく知ってゐる。やがて僕は、それ(悪評)を僕の前に呼びよせるだらう。そこしれない愛情をもつて。そのときこそ僕に対する憎み手であった者たちも一緒に来るがいい。僕は、何の変化もなかったようにそれらの者たちに対するだらうから。」(エリアンの感想の断片)

自分が悪口を言われているのではないかとか、自分に不利なことを誰かが画策しているのではないかとかいう不安感は誰もが持つものだと思います。なんとなく嫌われているような気がするとか、バカにされているような気がするとか。そういう不安感を自分でコントロールできなくなると、やがてはたえず周囲から自分に対してひそひそ話をされているような気がしたり、何者かにいつも追跡されている気がしたり、巨大な怪しい組織がいつも自分を見張っているような気になるといういわゆる妄想、幻聴という症状に移っていくのだと思います。逆に言えば妄想、幻聴といわれる奇怪な症状も、もとを正せば誰もが経験する日常的な不安感の延長にあると言えます。これはポルソナーレで教わってきた考え方です。
この初期ノートの文章で、吉本もこの誰もが経験する日常的な不安を取り上げて、それに対する自分の対処のしかたを書いているのだといえます。この頃の吉本は若気の至りでちょっとカッコをつけて書いている気がしますが、要するに自分に対する悪評というものは間違いなくあるだろうということを認めています。吉本の考えや生き方に対して、批判というものは必ず存在する。それは吉本がいかに優れていようとあるものです。なぜなら人間はすでにそこにあるものを乗り越えようとする本性があるからです。だからいろいろと批判されたり悪口を言われたりすること自体は避けるようなことではない。だから愛情をもって悪評を呼び寄せるというようなことを言うのだと思います。かめへん、かめへん(‐^▽^‐)がんばって乗り越えようとしたらえーがな、みたいなとこですかね。
あと吉本が言っているのは、まわりの人が自分を批評したり批判したりすることは、それ以前に自分自身で自分に対して自己批評として行うことなのだということだと思います。つまり自己批評というものを深く行えば、まわりの批評にびくつくことはないということです。だからなんの変化もなかったかのように憎み手であったものにも対する、というようなことを言っていると思います。悪口はおうおうにして陰でこそこそささやかれる。また悪口を言われる自分もひそかにそれを気に病む。そのこそこそした繰り返しが心が病的になっていく狭く暗い道筋じゃないですか。それをどうしたらいいかといえば、自分の周囲の悪口を言っているかもしれない人々との人間関係を、もっとドーンとした社会性と客観性をもつ、風通しのよい思考の広場のようなところに置いて考えることじゃないでしょうか。つまり社会のどこに出しても通用するという社会的な規範に基づいて、陰にこもらずに考えるということです。悪口を言われたとか、陰でなんかうわさしてるというようなしみったれた恨みを持たずに、最初から自分で自分のことを客観的な基準に照らして点検してみて、もしそこになんかの欠点や不足があるならば、まわりがこそこそ言っていることも大体その欠点や不足に基づいているわけですよ。だったらそれは自己批評として受け入れればいいわけです。自分の欠点や不足は確かにあると肯定すればいいと思います。それを自分で乗り越えようという姿勢を持てれば、まわりから陰口を叩かれているかもしれないという不安感も乗り越えられると思います。まわりの批判が消えるわけではないですが、批判とか悪口というものに対する精神の構えができるからそれだけ安心できるわけです。具えあれば憂いなしです。
しかしそのことと、まわりが言っている批判が正しいかどうかということとは別問題ですね。まわりの批判が歪んでいたり幼稚であったりすることも往々にしてあります。しかしそれでもまわりが批判する根拠は、やはり自分の社会的な行動におけるなんらかの欠点、欠陥、不足にあるのだと考えておいたほうがいいんじゃないかと思います。たとえ幼稚な反発でも、その反発がでる根拠というものは自分の欠点の中にあるんじゃないかと考えるのが、自己批評のモチーフですから。たとえ今悪口を言っている人がそれを止めたとしても、欠点がある限りは必ずまた批判は起こる。それを自覚しないのは自分の恥だ、ということですね。
まあリッパそうなことを書いていますが、私自身がそういう堂々人生( ̄^ ̄)を生きてきたわけではありません。けっこう常に不安感をもってビクビクして生きています。しかし本来どうあったらいいのかを考えると、以上のようになると思います。これも吉本やポルソナーレから教わったことです。